【写真】陸上のトラックで笑顔で見つめあうたかだゆうじさんとちあきさん、おふたりの間に入って腕を掴んでいるお子さんのさときくん

東京都江東区にある「夢の島競技場」。よく晴れた夏の日、誰もいない静かな練習場に、一人のアスリートがやってきました。

【写真】陸上のトラックと走幅跳用の砂場がある

【写真】真剣な表情で足のストレッチを行うちあきさん

黙々とストレッチを行い、トラックに進みます。

【写真】男性の伴走者と陸上のトラックを走るちあきさん。伴走者の右手にむずんでいる紐をちあきさんが左手で掴んでいる

男性が伴走しながら、トラックを周回してウォームアップをした後、コースへ入ります。

【写真】腕と足を振り上げてコースを走っているちあきさん。

【写真】走幅跳用の砂場にジャンプするちあきさん

勢い良く駆け出したと思ったら、すぐにスピードを増し、砂場の手前で大きく踏み込んでジャンプ。「あっ」と息を飲む間の、鮮やかな着地。

その後も彼女は、黙々と練習を続けます。ほどなくしてもう一人の男性が現れました。

【写真】背中のストレッチをするゆうじさん。サングラスをつけている

サングラスをかけ、凛とした出で立ちの男性。同じように黙々とウォームアップを済ませます。視線の先にはハードルが。

【写真】ハードルとハードルの間を走るゆうじさん

【写真】ハードルを跳びこえるゆうじさん。足がとても高く上がっている。

並んだハードルを次々と飛び越え、スピードを落とさずに駆け抜けていきます。その姿はまさに圧巻!

二人の名前は、高田裕士さんと、高田千明さん。

夫の裕士さんは、聴覚障害のある選手の世界大会「デフリンピック」の日本代表経験があります。そして妻の千明さんは、今年のリオデジャネイロ・パラリンピックの視覚障害部門での日本代表に選ばれたという、夫婦揃っての陸上競技選手です。

そう、二人はそれぞれに聴覚と視覚に障害があるアスリートなのです。

見えない・聴こえないふたりは、どんな風につながっているの?

僕がはじめて二人に出会ったのは、障害者アスリートへのヒアリングを行う仕事がきっかけでした。

目の見えない千明さんと、耳が聴こえない裕士さん。見えるし、聴こえる僕。手話に筆談、タイピング、それから口頭会話を織り交ぜながら、お話をした数年前。短い時間だったけど、なんだかとっても「楽しかった」のを覚えています。それはきっと、二人の間に流れる空気が、お互いへの信頼と安心感で満たされていたからでしょう。

その後、しばらく直接お会いすることはなかったのですが、最近になって裕士さん・千明さんの姿をさまざまなメディアで目にするようになりました。それもそのはず、今年2016年はリオデジャネイロでのオリンピック・パラリンピック開催の年でした。そして、4年後には東京オリンピック・パラリンピックが待っています。

障害のある選手のスポーツシーンにも注目が集まるなか、ご夫婦でアスリート、しかもそれぞれに視覚障害・聴覚障害があるということもあってか、障害者スポーツの特集などでお二人が取材されることも少なくありません。

でもだからこそ、僕は二人の「これまで」が知りたくなったのです。

傍から見ると、ほとんど日常生活に不便も支障もなさそうに見えるほどの様子だけれど、二人はどんな風にして、お互いのことをみて、きいて、かかわりあっているのだろう。トップアスリートとして活躍するまでには、いったいどんな日々があったのだろう。

それぞれがどのようなご家庭で育ち、陸上の道へと進んだのか。二人の出会いや、息子の諭樹くんが生まれてから今までの日々を、じっくり聞いてみることにしました。

先天性の障害に親が気づく。でも自分にとっては”普通”だった

【写真】インタビューに真剣に応えるちあきさんとそれを見守るゆうじさん
鈴木悠平(以下、悠平): まずはお二人が出会う前のこと、それぞれどんな幼少期を送られてきたのか教えていただけますか。

高田千明さん(以下、千明さん): 私の家は3人姉妹で、2歳下と5歳下の妹がいます。目の病気にはじめに気づいたのは父親で、私が5歳の時に、友達とカルタで遊んでいる様子を見て、「目線の動きがちょっとおかしいな」ということに気づいたそうです。

当時はまだ文字も絵も見えていたし、カルタに何が書かれているか父に聞かれても答えられたんですけど、物から目線をずらして見るような眼の動きだったので、やっぱりおかしいということで病院に連れていかれて。遺伝性の目の病気だと発覚したんです。

悠平: お父さんが途中で気づかれたんですね。

高田裕士さん(以下、裕士さん): 僕の場合も先天性の聴覚障害なんですが、生まれてから2年ほど経つまでは親も僕の障害に気づきませんでした。生まれてしばらく、赤ちゃんの間は親が常に近くにいるし、そんなに複雑なコミュニケーションを取らないじゃないですか。僕は活発で元気な子だったらしいので、特に問題も感じず育てていた。

でも2歳になる頃に、名前を呼んでもまったく振り向かないし、近くで大きな音がしても全然反応しないってことで、おかしいんじゃないかと親も感じだしたんですね。それで病院に連れていったら、耳が聞こえていないことがわかったそうです。

【写真】インタビューに真剣に応えるゆうじさん

悠平: 先天性の障害であっても、小さい頃だと本人も周りも普通に過ごせている限りは気づきませんよね。

千明さん: 本人にとっては見えていないのが当たり前というか、他の人と違ったその見え方が「普通」だと思って過ごしていたので、特になんということはなかったんですよ。幼稚園ぐらいまでは限られた場所でしか遊んでいなかったし、そこまで高度なことをして遊ぶわけではないので、友達と過ごす分には全く困っていなくて。

でも、障害に気付いた父としてはかなりショックだったようです。一番下の妹も私と同じ目の病気を持って生まれてきていて、子ども3人のうち2人も障害が出たのは自分のせいじゃないかって、父は思い悩んでいました。本人としては、「いやー、そんな風に謝られたって私はこれが普通だよ」って感じなんですけどね。

障害があっても自分のことは自分で出来るようにというご両親の思い

悠平: 障害が判明してから、それぞれのご両親は裕士さん、千明さんをどのように育ててこられたのですか。

裕士さん: 母は、地域の聾(ろう)学校にも相談しながら、すぐに発音の練習を始めたそうです。僕は物心ついた当時から声を出している記憶しかないので、正直よく覚えていないのですけど、「心を鬼にしてトレーニングをしたんだよ」とは、大人になって母から聞かされました。

【写真】インタビューに真剣に応えるゆうじさんとそれを見守るちあきさん、ライターのすずきゆうへい

悠平: そのトレーニングとは具体的にどんな?

裕士さん: たとえば「あ」の発音だったら、「あ」の口や舌の形をまず作ってそれで声を出させる。僕本人は聞こえていないんですが、ちゃんと「あ」の声が出ていたら、正解のしるしとしてたまごボーロを「ハイ、よくできたね」って渡してもらえる、という方法で、正しい「あいうえお」の感覚を身体で覚えさせてもらいました。

父も、仕事であまり家にいなかったのですが、休みの日には音楽会に連れて行ってくれたり、耳元でなるべく大きな声で話しかけてくれたりと、当時まだ残っていた耳の感覚を、少しでも引き出そうとしてくれていたみたいです。昔は今ほど障害に対する理解や支援が進んでいなかったこともあり、親としては耳が聴こえなくてもなるべく自分で身の回りのことはできるように、という思いで育ててくれたのだと思います。

悠平: なるほど。物心つく前からご両親は裕士さんの将来を思って…

千明さん: 私も同じで、見えないからってなんでも他人にやってもらうのではなく、自分でできることはやりなさいっていう方針でしたね。

【写真】インタビューに真剣に応えるちあきさん

私の病気は、人によって程度やスピードの差はあれど、だんだんと視力が落ちていくのは確実に分かっているものでした。「まだ視力が残っている間に、自分で色々な物を見て、触って、感触を覚えなさい。周りの状況を把握して自分で動けるようになりなさい。」と、常々言われていましたね。見えているうちになるべく多くの記憶や思い出を残せるようにって、色んなところにも連れて行ってもらいました。

まぁでも、どこに行ったか私いまいち覚えてなくて、せっかく努力してもらったのにごめんなさいって感じなんですけど(笑)。母親にも「あんたほんとに残念な子だねー」って言われる始末です。

悠平: それはまたなんとも(笑)

千明さん: そんなこんなで、小学生になってからもやんちゃにたくましく育っちゃって、男の子とのケンカでも全然負けませんでしたね。いま振り返ればちょっとしたいじめだったと思うんですけど、その頃、眼鏡をかけて矯正をしていたので、その眼鏡が変だと言われたり、目線がずれているから「お前どこ見て誰と話してんの?」ってからかわれたりしたんですよ。

でも私はからかってきた男子をひっ捕まえて、「私はあなたと話してるの。目線がどうこうとかじゃなく、いま目の前のあなたにしゃべってるんだよ」って、戦うわけですね(笑)

【写真】微笑んでインタビューに応えるちあきさん

悠平: つ、強い…笑

千明さん: でも、中学校からは盲学校に入ったので環境が変わりました。他の先天性障害の同級生は、もっと手取り足取り親に助けてもらっているような子が多くて。同級生から「え、物を探してもらったり迎えに来てもらったりしないの?」みたいに驚かれて、逆に私からしたらカルチャーショックでしたね。

悠平: 同じ盲学校生でもそんなに違いが。

千明さん: そうなんですよ。私にとっての「普通」が普通じゃなかったみたいな。でも、だんだんと目が見えなくなっていくなかで、どうやって空間認識をしていくか、周りから情報を得たり支援を求めたりするか、生きていく上で必要なことを学ぶことができたのは良かったです。

あと、盲学校には中途障害で入ってくる年上の方もけっこういて。見えていた頃にどんな生活をしていたとか、世の中にはどんな仕事があるとか、世界を広げてもらえる出会いがありました。

悠平: 中途障害の方との出会いもあったんですね。お二人とも、小学校や中学校の頃から、スポーツは得意だったんですか?

千明さん: 小さい頃から走ることはすごく楽しくて好きでした。ゴールが分かっていれば目が見えなくても関係ないので、これだけは絶対誰にも負けないと思って、体育や運動会では負けなしでした。

裕士さん: 僕も走るのは得意だったので、サッカーでも野球でも、足の速さを活かして活躍できました。耳が聴こえる子の多い集団で遊ぶときも、じゃんけんで仲間を取り合ってチームをつくるときに、一番最初に僕が呼ばれることも多くてうれしかった記憶があります。走ることで自分の輝く場所を見出せるような感覚だったんでしょうね

スポーツは、たとえ障害があっても実力で公平に比べられる世界だから、失敗・成功含めてスポーツをずっと続けてきたことが、自分の自尊心の基盤になっている気がします。

打ち込んでいた球技の道が閉ざされ、陸上競技と出会う

悠平: お二人が陸上を本格的に始めたのはいつ頃だったんですか?

裕士さん: 僕は高校の途中までは野球をやっていて、プロ野球選手を目指していたんです。だけど、肩を壊しちゃってプロはおろか大学で野球をがっつり続けるのも難しいという状態になったんです。その時、自分の居場所がポッカリなくなってしまったような感覚に陥って、これからどうしようかと、大学の陸上部の監督に相談したのがきっかけです。

【写真】真剣な表情で陸上のコースにハードルを準備するゆうじさん

悠平: そこから陸上競技を始めたんですね。高校までろう学校だったとのことですが、大学の陸上での練習環境はどうだったんですか?

裕士さん: 耳が聴こえないのは僕一人だけで、周りはほとんど障害のない人たちと一緒の練習環境でした。でも、障害について腫れ物扱いされることもなく、むしろ気軽にいじってくるぐらいの感じで対等に扱ってくれたので、過ごしやすかったです。

始めたばかりの頃は女の子よりも短距離が遅くて、とにかく悔しい思いばかりだったんですけど、野球部の頃と同じく、スポーツでは負けたくないっていう気持ちで食らいついていったら、段々と記録も伸びていって、大学4年の時は関東インカレのリレーメンバーにもなりました。

悠平: それはすごい。その大学4年生の国体で千明さんと出会ったんですよね。

千明さん: 私が裕士と出会ったのは、私にとっては盲目競技者として3回目の国体でした。東京都は障害者アスリートが多い一方で出場枠も少なく、国体は2年おきにしか出られないんです。私は高校の頃から陸上を初めていて、その時が3回目の出場だったんですね。

悠平: ということは、裕士さんより少し早く陸上を始められていたんですね。

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千明さん: ええ、でも高校まではほとんど球技をやっていたんですよ。まず小学校は、担任が「見えなくても気合だ、やれー!」みたいなスポ根系の先生で、「いや、絶対無理だって」とか言いながら、見えないボールに向かってバットを振らされていました(笑) 

悠平: それはまた酷というかナンセンスというか…

千明さん: とりあえずなんでもやってはみたんですけど、そんなんじゃ学校の体育の授業は全然楽しくないですよね。だから中学で盲学校に入ってからは、目が見えない人用の球技環境が整っていて、すごく嬉しかったんです。

フロアバレーっていうネットの下をくぐらせるバレーボールだとか、他にも卓球やトランポリンでも、鈴の音が鳴って自分の動きが分かるようになっているんですよね。前々から興味があったのに出来なかったことが全部出来ると思ったら、走ることよりも他の球技に夢中になっちゃって、結局3年間ずっとバレーボールをやっていました。走るのは相変わらず一番だったし好きだったけど、真剣に練習をやるって感じではなかったですね。

だけど、高校の3年生ぐらいになると、本当にほとんど見えないぐらいに視力が落ち込んじゃって。生活する分には大きく支障はないけど、学校を出てしまったら、一人でスポーツをするのはとても無理だなっていう状態になったんですよ。「あぁ、バレーどころか一人で走るのも出来ないんだな、私」って自覚して、それでも何かやりたくて、ある日学校に顔を出して体育の先生に相談したんです。

【写真】座って靴紐を結ぶちあきさん。

そこで、「障害者の都大会なら、サポートを受けながら出られるよ」ということを教えてもらいました。しかもちょうどその場に、障害のない人たちも一緒のクラブチームに入っている、全盲の男の人が来ていて、話しかけられたんですよ。

「君、練習どこでしてるの?」
「いや、一人だから練習できないし、何もしてないです」
「うちのクラブで練習やってるけど、参加する?」

っていう感じでその場で練習に誘ってもらって。私は正直、練習とか苦しいことは好きじゃなかったんですけど(笑)、とにかく流れのままに練習会に参加して、そこで人生初めて、”伴走者”をつけて走ったんですね。そしたら「何も練習してないのにこのタイムなら、絶対もっと速くなるから上を目指してやりなよ!」って熱弁されて…。

はじめは、陸上を本格的にやるなんてつもりはなかったんです。でも、「何もしないでずっとこのまま過ごすぐらいだったら、やれるところまで挑戦してみようかな」って気持ちが湧いてきて、その男の人が所属するクラブチームに入れてもらうことにしたんです。そこで、最初の伴走者となる人や、今の伴走者兼コーチの人とも出会いました。

【写真】陸上のトラックを伴走者と一緒に走るちあきさん

悠平: そのクラブチームとの出会いが、千明さんの転機だったんですね。

千明さん: それまで全くまともな練習をしてこなかったから、最初はもー大変で大変で…目が見えないので、コーチのお手本の動きを手で触って確かめて、それから自分でやってみて、違ったらコーチに手取り足取りひとつずつぜーんぶ直され…っていう繰り返し。目が見えていない分、みんなと同じスタートラインに立つまでに倍以上の時間がかかりました。

そう考えると、裕士も私も、走るのは好きだったけれど、競技生活のスタートはあまり早い方ではなかったですね。

「あなたは目、私は耳」−二人一緒なら自然体で歩いていける

悠平: 国体で出会ってから、二人の関係はどのように深まっていったんですか。

千明さん: 国体で出会ったときは、同じ出場者同士、ちょっと話して連絡先を交換した程度だったんですけど、同じ年の秋に、練習のために来た競技場で偶然再会したんですよ。

クラブチームの一つ上の子が、「千明、高田っていう聴覚のやつ知ってる?千明がいるって聞いて、会いたがってるよ」って、裕士がいることを教えてくれて。「高田?聴覚?あー、そういえば、国体で会ったな…」って思い出して、そこで数ヶ月ぶりに再会して話したんです。

悠平: へぇー、競技場で偶然。裕士さん、わざわざ声をかけたということは、国体で出会ったときの第一印象から、千明さんのことが気になっていたとか?

裕士さん: いや、別にそういう感じでもないかな(笑)

千明さん: ないのかよ!(笑)

裕士さん: こないだ知り合った子だし、せっかくいるなら会ってみようかなぐらいの。

【写真】笑顔でインタビューに応えるちあきさんとゆうじさん、ライターのすずきゆうへいも笑顔で場が和んでいる

悠平: あ、そんな感じなんですね(笑)。まぁでも、そこからまた接点が生まれたわけですよね。それから…?

千明さん: それからちょくちょく連絡を取り合うようになったんですけど、聴覚障害の人たちが練習できる場所やサポート出来る人が少なくて困っているんだって、相談をされたんですね。それで、私のクラブチームで一緒に練習したら?って誘ったんですよ。

それまでも車椅子に乗っていたり、足や腕を切断していたりと、健常の人に混じって障害のある人もたくさん練習していたんですけど、聴覚障害の人は裕士たちが初めてだったんですよ。

例えば往復ランをする時でも、声や笛で指示を出されると、レスト(休み)とスタートのタイミングが分からないじゃないですか。その時手話が使えたのが私一人しかいなくて、コーチと聴覚障害の人たちの間に入って彼らも練習をしやすいようにコミュニケーションを取ることが多くなったんです。その過程で裕士ともだんだん仲良くなっていったのかなぁ。

【写真】スタートをする前のゆうじさん。手話で合図を送っている。

【写真】ゆうじさんを見守るちあきさんとストップウォッチを持つさときくん。

悠平: 手話で裕士さんたちのコミュニケーションを仲介されていたんですね。そういえば、今日も自然と手話を使われていますけど…千明さんは目がほとんど見えないなかで、いつ頃どうやって手話を覚えたんですか?

千明さん: 高校1年ではじめて国体に出たときに、聴覚障害の選手たちに話しかけて教えてもらったんですよ。昔からすごく手話に興味があって。だって、聴覚障害の人たちって、手話ですごく楽しそうに話してるじゃないですか。それに私たち視覚障害者と違って、聴覚の人たちはあまり移動にも制限がなくって羨ましいなとも思ってみていましたし。あの人たちはいったいどんなことを話しているんだろうって気になるけれど、手話を覚えないと会話にも入れないよなと思って。

悠平: 確かに、手話で話している集団を見ると、ものすごく早いやり取りで盛り上がっていて、何を話しているんだろうなーって気になっちゃいます。

千明さん: そうそう、そんなわけで、国体に出るたびに出場している聴覚障害の選手に手話を教えてもらいに行っていたんですね。ほとんど見えないので指の動きを直接触って教えてもらったりして。3回目の国体で裕士と出会ったのも、そういう流れでしたね。裕士は声も出るし、教わるんだったら年齢が近い方がいいだろうって、紹介してもらって。

悠平: なるほど、それで国体中に会って話す機会があったんですね。逆に、千明さんからして、裕士さんの第一印象はどうでした?

千明さん: 幼い(笑)。とても同い年とは思えないぐらい。

裕士さん: なに、俺の方が若く見えるってこと?

千明さん: 若いんじゃなくて幼いの!今も、でっかい長男みたいな感じですよ。

【写真】笑顔でインタビューに応えるちあきさんとゆうじさん

悠平: あはは、すごい言われよう(笑)今ではもう完全に千明さんが尻に敷いている様子ですけど…二人が恋人になって結婚するまで、お互いのどういうところに惹かれていったんですか?

千明さん: 私はもはや恋っていうか、母性かなって感じですけど…でもいま考えると、私が今まで一緒に過ごしてきた友人たちにはなかったようなアクティブさには惹かれたのかもしれませんね。

私は盲学校から専門学校を出てすぐ働き出したので、裕士みたいに大学まで行っている友達ってほとんどいないんですよ。だから、陸上の練習でも身の回りのことでも、ひとつひとつ自分で調べて動いて試してみるっていう、彼の知的好奇心や行動力がすごく新鮮だったんですよね。

裕士さん: 僕の方は、そうですね…一緒にいて飾らないでいい相手というか、落ち着くっていう表現が一番かな。無理せず、ありのままでも安心して過ごしていられる相手なんですよね。

千明さん: ほら、こんな調子だからもう母性で相手するみたいな感じなんですよ!言っとくけど私はあなたのお母さんじゃないからねー。

悠平: 手厳しい(笑)

千明さん: 万事こんな感じですから、結婚もどちらからプロポーズしたとか、改まった区切りもなかった気がしますね。

裕士さん: 俺もいつだったか全然覚えてない。

千明さん: 私は目が見えなくて、彼は耳が聞こえなくて、でも大変なことはお互いフォローし合えば二人で半分こだね、一緒にいると楽だし、いいねって。いつの間にか結婚してたって感じですよ。

【写真】トレーニングを終えて移動中、ちあきさんはゆうじさんの腕を掴んで移動している。

悠平: なんだかそれも二人らしいというか、自然体で素敵ですね。

「夫婦ふたりに障害があって、子どもを育てられるのか」両親から問われた覚悟、それでも

悠平: 結婚して、諭樹くんが生まれるまでの時期はどんな日々だったんですか?

裕士さん: 諭樹が生まれたのは2008年の年末なんですけれど、その年は北京パラリンピックの年だったんですね。

悠平: たしかに、今から6年前ですね。

千明さん: 私は北京には出られなかったんですけど、その結果報告と一緒に、結婚についてもそれぞれの両親に報告に行こうって裕士と話していたんですよ。で、いざ行こうっていうタイミングで子どもが出来ていることに気づいて。会ってみたらもう、大反対。

悠平: 反対されたんですか。

【写真】インタビューに真剣な様子で応えるちあきさんとそれを見守るゆうじさん

千明さん: 反対の理由の1つは、陸上にこれからますます打ち込んでいくという時期に、子どもも産んで大丈夫なのかっていう心配でした。「北京はダメだったけど、これからロンドンに向けて頑張るんだろう?子どもは、いま頑張るって決めたことをやり通してからでもいいんじゃないか」って。

もう1つはやっぱり、障害のこと。2人とも障害があって子どもを育てていけるのか、万が一子どもにも障害が出たときのことは考えているのかって、すごく厳しく問い詰められました。

悠平: そうだったんですか。

千明さん: たぶん、どちらの親としても、「自分たちは健常者だからお前たちをここまで育てられたけど、障害のある二人が子どもを育てていくのはどれだけ大変か分かっているのか」という自負や心配があったんでしょうね。耳が聴こえないのに裕士がこれだけ喋れるのは、やっぱりお母さんが一生懸命訓練をされてきたことがとっても大きいわけで。

悠平: なるほど…

千明さん: でもね、私たちの障害をマイナスとして考えることなく、一人の人間として生きていけるように育ててくれたのも他ならぬ両親なんですよ。だから、親心で言ってくれてるんだろうなって分かる部分もあったけど、「私たちを育てたあなたたちが、そんなに障害をネガティブに考えるなんて!」と、違和感や納得できない部分も正直あったんです。

悠平: あぁ…

千明さん: でも、そうやって言われると、やっぱり私たち二人も、障害が遺伝しないかどうかっていうのは心配にはなりますよね。それで遺伝で詳しい病院にも相談に行ったんですけど、先生には「視覚障害の人と聴覚障害の人が子どもを産んでも、その子どもが両方の障害を持って生まれてくるっていうことではないんですよ」と言われて。

裕士さん: 「健常な人同士が結婚して障害のある子どもが生まれるのと、ほとんど同じぐらいの確率だから、そこを気にしてもしょうがないんじゃない」って言ってもらったんです。

千明さん: そういうことも言ってもらって、さらに念には念を入れて、先天性の障害なら事前の検査で分かるギリギリの時期まで様子を見て…。それで最終的に「もう、産みますし、籍も入れます」って両親に宣言しました。

悠平: おぉ…

千明さん: やっぱり2人ともね、一度「こうだ!」って決めたら譲らない性格ですから。もう最後は、「どうなったって私たち親子は3人でちゃんと生きていきます」って言い切って。親たちも、そこまで言うならまぁ止めはしないし、好きにしなさいって、折れてくれました。

悠平: はあぁ…それほどのやり取りを経ての出産とは。

千明さん: まぁでも、実際に子ども生まれるとものすごい溺愛っぷりでしたたけどね!

裕士さん: もうほんとに、僕の母が一番強く反対していたんですが、諭樹が生まれるとまるで人格が変わったみたいに、「さっくんさっくん」「ばーばだよー」って(笑)

悠平: ははは!やっぱり生まれると可愛くって仕方がないんですね。

千明さん: それに、最初は心配や反対していたけど、なんだかんだと親たちも気にかけてくれて。

「自分たちでやるって決めたんだから、それなりの覚悟と責任を持って頑張りなさいよ。でも、目や耳が必要、誰かの助けが必要という時に、突き放すようなことはしないから、相談しなさい」って、父親が言ってくれたのはすごく嬉しかったです。

【写真】白杖を持って歩くちあきさんと腕で支えるゆうじさん

途中で道を変えたっていい。他人ではなく自分で決める人生だから、選んだ道に後悔だけはしないように

悠平: 今年は、北京・ロンドンを経てリオパラリンピックの年、諭樹くんももう7歳ですね。結婚・出産当時からも月日が流れましたが、諭樹くんはどんな子ですか?

千明さん: 落ち着きがない!

悠平: ははは!確かに(笑) 僕も今日、お二人の練習を見てる合間に諭樹くんと遊んでましたけど、もー、元気で元気で…

【写真】笑顔のさときくんとちあきさんをゆうじさんが見守っている

裕士さん: でね、保育園の年中ぐらいになるとやっぱり集団行動ができないのがすごく気になって。僕も大学で障害児教育を専攻していたので「ADHDかなぁ…」とか思ったりもするわけですね。

悠平: なるほど。

裕士さん: それで保育園の先生にも相談したんですよ。

悠平: ほうほう。

裕士さん: そしたら案の定、「私もそんな気がします!」って。僕も「ですよね〜」みたいな。

悠平:

千明さん: でも正直、私も裕士も、障害があるとかないとかはどうでもいいんですよ。この子が周りの人たちと一緒に楽しく生活ができることが一番大事だから。今の学校では、週に2日間は、担任の先生に加えて支援員さんに授業に入ってもらえるから、それをお願いして、諭樹が集中しやすいようなサポートをしてもらっています。

「落ち着きのなさ」っていうものも、先天的な特性だけでなくて、周りの環境の変化だったり、本人や周囲の心の成長によって落ち着いてくることもあるんですよね。だからこそ、本人が成長するまでの間、いま得られる支援なら惜しみなく使っていこうと思っています。何もしないまま失敗体験が増えて、「学校に行きたくない」とか「勉強きらい」となってしまうよりよほどいい。

悠平: うん、うん、そうですよね。

千明さん: それにこの子、表面上は落ち着きないですけど、案外自分と周りのことをよく理解しているんですよ。あんまり集団行動をせずに一人で遊んでいることも多かったので、保育園の先生に、「うちの子、大丈夫ですかね~?」って聞いたこともあるんです。

そしたら先生、「いや、大丈夫だと思いますよ。さとき君は『今、何をする時間か分かる?』って聞いたら『うん、歌を歌う時間』ってちゃんと答えていますから。だけど、『今、さときは歌を歌いたくない』とはっきり断られましたから(笑)」って。

悠平: すごくしっかりしてるじゃないですか(笑)

千明さん: ちょっと自由すぎるところはありますけど、周りが見えていないわけではなくて、「いま自分はこうしなきゃいけない」ということは分かっている。なら本人が成長するなかで段々折り合いが付けられるようになればそれでいいかなって。

【写真】走り終えて座っているゆうじさんとアドバイスをするちあきさん、さときくん

悠平: なるほど。自分で理解して、選ぶことが出来ているというのは大事ですよね。お二人のご両親の子育ての考え方や、お二人自身のこれまでの人生にも通じるところがあると思いました。裕士さんは、父として、諭樹くんにどんなことを伝えていきたいと考えていますか。

裕士さん: そうですね。やっぱり僕たちがアスリートとしてデフリンピック・パラリンピックに出場して世界一に挑戦している姿も見せていますし、何か一つ目標や夢を持って全力でチャレンジすることの楽しさや大切さは感じ取ってもらいたいなって思います。

でも一方で、たとえ目指している目標に届かなかったとしても、その結果だけに囚われずに自分で自分の道をその都度考えて選べるようにはなってほしいと思いますね。

スポーツの世界でも、一つのことをずーっと諦めずに続けることが美談のように語られがちですけど、続けることも、新しい道を探すことも、自分自身の選択なんですよね。僕自身も、聴覚障害があったり、高校で肩を怪我して野球ができなくなったり、出来ないことや諦めることもありましたが、そこで陸上という道を選んで、今こうして続けられているます。

【写真】笑顔のゆうじさんと差し入れの飲み物をあげるさときくん。

千明さん: そうですね。周りに流されたり、逆に周りが見えなくなっちゃったりして、頑なに「自分がやるのはこれだけ!」っていう状態にはならないように、とは思います。でも、その上で自分で「やろう」と決めたことは最後までやれるだけやり切れる子には育ってほしいと思います。

悠平: 自分で決めたことを、やり切る。

千明さん: 私も、陸上競技を本気で始めてから10年が経ちました。その間に北京・ロンドンと2回のパラリンピックが通り過ぎていったんです。代表標準のレベルは突破したものの、最後の最後でダメだった。ということが2回。

北京パラ選考の時は、競技を本格的に初めてから1 年も時間がありませんでした。それでもなんとか標準を突破して、もう、これ以上できないという所まで練習をして記録をのばしていった結果の、代表選考落ちでした。悔しいけれども、これ以上頑張るのは無理だっていうところまで自分を追い込んだ結果の選考落ちだったので、「じゃあ、次のロンドンをまた頑張ろう」っていう気持ちで終われた年だったんですね。

でも、その後結婚をして、出産をして。凄く嬉しかった反面、練習に復帰してからやっぱり身体が思うように動かず、何とか標準を突破することはできたけれども、最後の選考でやっぱりまたダメだったのがロンドンです。この時はほんとに苦しくて苦しくて。両親にも、「もう子どもに時間をかけるようにして、陸上は諦めたらどうか。子どもがいながらというのは、自分一人で練習や仕事をする以上に大変なことなんだから、無理をしなくてもいいんじゃないか」って言われたこともありました。

でも、諭樹のために辞めるっていうのは、やっぱり違うなって。自分の限界以上に力を振り絞った結果なら、北京の時のように素直に諦められたと思うけど、ロンドンはそうじゃなかった。

悠平: うん。

千明さん: 子どものことは大事、でもまだ自分はやり切ってない。そんな葛藤があったときに、裕士に相談したら、「やめて後悔するよりも、やって後悔する方がいいよ。人生は一回しかないし、本気でスポーツができる年齢というのは嫌でも終わりが来るから」って言ってもらったんです。

子どもが大きくなって、自分も年をとって、後から「やっぱり、やっておけばよかった」って思っても、もう年齢も体力も戻ってこない。それならもう、死に物狂いでやれるところまでやってみようって覚悟を決めました。自分の全力を注いでやったことがマイナスになることは絶対にないと思ったので。それからまた4年間、子育てもしながら必死で練習して、ようやくつかみ取ったのがリオの切符。

【写真】ちあきさんの走幅跳でジャンプをしている。腕と足がとても高く上がっている

悠平: ついに、初めてのパラリンピック出場。

千明さん: さすがにここで行けなかったら堪えたと思いますね。やらずに後悔よりもやって後悔、とは言いますけど、ここまでやって行けなかったらどうしようって気持ちは正直ありました。でも、行けることになって本当に嬉しいです。

裕士さん: せっかく手にした機会だから、全力で思いっきり、後悔のないように走ってほしいですね。もちろん結果にこだわるというのも大事なんだけど、行きたくても行けない人の方が多い夢の舞台ですから、とにかく楽しんで、それで何かをつかんできてほしいなって思います。

千明さん: きっとパラリンピックは、他の試合とは雰囲気も全然違うだろうし、周りからの注目や期待もすごくて、それにどれだけ応えられるかは正直わからない。

でも自分がやるべきことは、今持っているものをすべて出し切ることでしかないから、周囲の期待やメダルへのプレッシャーに飲まれるんじゃなくて、自分がここまでやりきったという姿を、諭樹や裕士にしっかり見せていきたい。そんなジャンプをしたいと思います。

【写真】陸上のトラックを笑顔で歩くちあきさんとちあきさんの腕を持って歩くさときくん

裕士さん: まぁ、とにかくいつも通り、楽しんでおいで!

悠平: 心強いですね。僕も応援してます!

自分の挑戦を、誰よりも信じて応援してくれる人の存在が、道を照らす

【写真】笑顔のゆうじさんさときくんちあきさんとライターのすずきゆうへい

続けること、諦めること、新たな別の道を選ぶこと。いつだって人生は、自分自身の選択の連続で紡がれていきます。

選んだ道を走っていくのは本人にしかできないこと。だけど、困難に直面してくじけそうになったとき、信じて共にいてくれる身近な人の存在は、きっと何よりも力強い支えになるのでしょう。

裕士さん・千明さんのこれまでの人生や、それぞれのご両親の想いに触れて、そんなことを感じました。

目が見えないこと、耳が聴こえないこと。それ自体は二人の持って生まれた特性ですが、そのことによる困難や不安は、今の社会では決してゼロではありません。学校生活や競技生活、そして二人の結婚・出産に際してもさまざまなハードルがありました。それでも、「何があっても夫婦で、家族でともに生きていく」という強い意思が、二人を結び、支え続けたのです。

お互いへの深い信頼から来る、遠慮も屈託もない二人のやり取り、息子の諭樹くんを含めた賑やかで明るい家族の風景。一緒にいるだけで、元気をもらいます。

このインタビューの後、9月に開催されたリオデジャネイロ・パラリンピック。千明さんは、陸上・女子走り幅跳びT11クラス(視覚障害の部門)で決勝に進出し、自身が持つ日本記録を更新する4メートル45の跳躍で、見事8位入賞を果たしました。

海の向こう、テレビの前で千明さんを応援している裕士さんと諭樹くんが、結果を見て喜んでいる姿が目に浮かびました。きっと千明さんが帰ってきてからも、笑いの絶えない日々を過ごしていることでしょう。

(写真/馬場加奈子、協力/森一貴)