【写真】笑顔のやまだうんさん
強くなったり弱くなったり、昨日の私と今日の私が別人のように思えることがあります。

昨日は自信満々だったのに、今日は一切の自信を失い未来に怯えている。つくづく私という人間は、いろんな感情に揺さぶられる複雑な生き物だなと感じて、その振れ幅の大きさにうんざりしてしまいます。自分の二面性を受け入れる。それは簡単なようで、簡単ではありません。

始めに、少しだけ私の話をさせてください。

私は自分のことを「強い」と思って生きてきました。昔から負けん気が強く、自ら前に出ていく学級委員タイプ。やると決めたら一生懸命に取り組み、選抜や表彰といった誰の目にも分かる結果を得ることで自分の「強さ」を確かめてきました。

ところが今から数年前、「強さ」が揺らぐ出来事がありました。腎臓を患い、生活に痛みが付きまとうようになったのです。どこで何をしていても、冷や汗が出るほどお腹が痛い。

勉強も遊びも習い事も、あらゆることを頑張ってきた私にとって、それは初めて「頑張る」ことを奪われた経験でした。痛みと戦っても戦っても、ようやく健康な人のゼロ地点にしか立てない。痛みにしか目が向かない自分が嫌で、横になってひたすら悔し涙を流していた日々のことを今でも鮮明に覚えています。まさか自分が、こんなに弱くなるなんて。

それでも、家族にも同僚にもできるだけ弱音を吐かないよう踏ん張っていました。弱い自分を他人に見せてしまったら、チャンスを奪われる気がしていたから。そして、弱さを自分自身が認めてしまったら、立つ瀬が無くなりすべてが崩れ落ちてしまう気がしていたから。

だから、今回インタビューをするダンサーの山田うんさんに出会ったとき、絶対に聞いてみたいことがありました。

“痛み”を抱えたダンサー、山田うん

山田うんさんは、世界を舞台に活躍しているコンテンポラリー・ダンサー。振付家として、ダンスカンパニー「Co.山田うん」のプロデュースも行っています。

でも実は、うんさんはこれまで数多くの病気を経験しているのです。関節リウマチに甲状腺がん、バセドウ病に橋本病など。

取材前日、「Co.山田うん」の動画を見漁っていた私は、不思議でたまりませんでした。“痛み”を抱えた人間が、なぜこんなにたくましく快活に動けるのだろうと。そこにいたのは、“苦しみ”を感じさせない、エネルギッシュで予測不能なダンサーでした。

うんさんは、どうやって痛みと付き合っているのだろう。どうやって弱い自分と向き合っているのだろう。私はそれを尋ねてみたかったのです。

取材当日、目の前に現れたうんさんは、想像していたより小柄な人でした。ポップな水玉模様のTシャツに身を包み、着替えの入った大きなバッグを持って現れたうんさん。キラキラした瞳は少女のようで、うんさんが連れてきた空気感は、ポジティブなエネルギーそのものでした。

【写真】笑顔のやまだうんさん

よろしくお願いします! soarに出ている皆さんは、綺麗な一本のストーリーを歩んでいる方が多いように感じるけど、私の話はもしかしたらまとまらないかもしれない。

自身の人生の一貫性の無さを少し心配するような言葉を残し、うんさんはささっと練習着に着替えると、ルーティンのようにストレッチを始めます。

【写真】両手をついてストレッチをするやまだうんさん

その後、即興でコンテンポラリーダンスの動きを披露してくださったうんさん。動画で見ていたときと同じ予測不能なダンサーが目の前に現れ、思わず息をのんでしまいました。

【写真】両手を大きく広げ、右足を前に出しているやまだうんさん

うんさんはすーっと息を吸い込むと、身体に動きを与え始めました。頭、右手、左手、胸、腹、腰、右脚、左脚――身体を構成するすべての部品を巧みに使い分け、丁寧に、そしてダイナミックに舞い踊ります。

【写真】左半身を床につけ、とても体を柔らかく曲げているやまだうんさん

うんさんのしなやかで力強い動きを眺めていると、指先・足先まで意識が研ぎ澄まされていることが分かります。私は、気になっていた「あれ」を聞いてみることにしました。

「踊っているときって、痛みは感じないんですか?」

うんさんは考える間もなく、こう答えました。

いや、痛いですよ! でも私、止まったら死ぬと思っているので。

「止まったら死ぬ」。彼女はどういう意味でそれを言っているのだろう。その強烈な言葉をサラリと言ってのけるうんさんの「強さ」を紐解こうと、幼少期からのストーリーを辿っていきます。

【写真】笑顔で向き合っているやまだうんさんとライターのにしぶまりえさん

幼少時代、崖っぷちのスリルがたまらなく好きだった

現在は、ダンサー・振付家として活躍するうんさんですが、幼少期はピアノ、水泳、器械体操、色々な習い事をしていました。毎日のように練習や稽古に通い、放課後に友達と遊ぶことはほとんどありませんでした。

私、“スリル”が欲しかったんですよね。体操も水泳も常に競争させられるじゃないですか。こわい技を習得していくプロセスって、まさに崖っぷち。次の一歩がどうなるか分からないのを飛び越える瞬間がたまらなく好きで、友達と遊んでいてもなんか物足りなかったんですよ。

【写真】笑顔でインタビューに答えるやまだうんさん

うんさんが今でも忘れられないのは、初めて平均台の上でバック転をしたときのことです。小学3年生だったうんさんが、初のチャレンジをしようとコーチのもとに駆け寄り「補助お願いします」と言うと、コーチはただ「自信あるの?」と一言。うんさんが首を横に振ると、「じゃ、できないわよ。できると思えるまで来ないで」と言うのです。

9歳だった私はもちろん動揺しました。予想外の返答にあたふたしていると、コーチから具体的なアドバイスをされたんです。床に平均台と同じ10センチの幅をとって、100回中100回そこに手をつけられるようになったら、平均台の上でもできるわよって。子どもの邪念の無さってすごいですよね。私、本当に100回連続で手がつけるまで練習したんです。

数日間、床でバック転をし続けたうんさん。ついに100回連続で同じ場所に手をついて着地できたとき、再び「補助お願いします!」とコーチのもとに駆け寄ります。コーチはやはり「自信あるの?」と尋ね、うんさんが「あります!」と答えると、「じゃあ1人でやってみなさいよ。補助いらないでしょ」とまたしても予想外の答えが返ってきました。

心臓をバクバクさせながら挑んだ、初めての平均台の上でのバック転。えいっと飛び出してみると、コーチの言う通り、うんさんはきちんと平均台に手をつき、平均台に着地することができました。

あのとき味わった恐怖って今でも覚えているくらい大きくて。コーチはもし失敗しても助けられる場所にいたはずなんですけど、子どもの私にとっては遥かかなたの距離なんですよ。成功した瞬間、コーチはただ「ほら、できたじゃない」と言うだけで全然褒めてくれなかった(笑)。でもあのときの経験は、今私が大切にしている“人を見守る”って行為の原点ですね。

【写真】笑顔でインタビューに答えるやまだうんさんとライターのにしぶまりえさん

微熱に両手足の痛み。中学1年生のときリウマチを発症

小学校高学年から中学校にかけて、多くの人は身体が変化します。女子には生理が来て、男子は声変わりや身長が急速に伸びる時期。うんさんが中学1年生の頃に感じた関節の痛みも、初めは成長痛の一部だと思っていたそうです。

学校はスリルがなくてつまらないから、身体が行かなくていいよって言っているのかと思いました(笑)。でも、雨が降るとより行きたくなくなるんです。そのうち、雨の日には本当に身体が動かなくて、ベッドから起き上がれなくなっちゃって。これはおかしいと病院に行きました。

微熱、両手足の対称な痛み、起床直後は指の動かしにくいことなどを医師に伝えると、医師はぽろっと「リウマチかもしれないな」と一言。

リウマチは30~50代で発症する人が多いので、父も母も「まさか、中学生なんだからリウマチはないでしょ」と思っていたみたい。ただ、たまたま母の同級生が重度のリウマチを患っていたんです。母が彼女に相談をすると、中学生で発症する子は少ないから、本当にリウマチなら初めからいい先生に診てもらった方がいいと言われたようで、今でも通っている病院を紹介してもらったんです。

【写真】インタビューに答えるやまだうんさん

いくつかの検査を経て、うんさんが診断されたのはやはり関節リウマチでした。関節リウマチとは、免疫の異常により関節の腫れや痛みを引き起こし、進行すると軟骨や骨が壊れていってしまう病気です。

ただ、当時のうんさんは、さほどショックを受けなかったといいます。病院の待合室には、重度のリウマチで手や足が変形してしまった患者さんたちがいました。うんさんは彼らを見ても、将来の自分と結びつけることができなかったのです。

私より両親の方がショックだったと思います。人工関節を入れている人も見ていたので、リウマチが進行するとこうなるってことは分かっていたけど、私自身は“ま、大丈夫っしょ”って楽観視していたかな。

金製剤という筋肉注射を学校帰りに打ち、歩くのも痛い状況で、満員電車に乗らなければならない。けれども、うんさんにとって嫌だったのはそれくらいで、周囲に不安を口にすることもありませんでした。

特に、友達には1人もリウマチのことは話していないですね。だって、説明がめんどくさいでしょ。インフルエンザだったら、みんな経験しているからどんなものか分かるけど、「私リウマチでさ」って言ったところで誰からも共感されない。分かってもらえないことは話さなくていいやって。基本ドライなんですよね。

【写真】丁寧に質問に答えるやまだうんさん

手足の関節が痛む中学生活を送っていたうんさんに、医師はある提案をします。それは、リハビリのためにダンスを始めること。発症したら、基本的には一生付き合っていかなければならないのがリウマチ。痛みのある人生の先が長いことを心配した医師からの薦めでした。

これに大乗り気だったのは私よりも母だったんです。一生懸命、市内のあらゆるバレエスクールを調べてくれて。その中で、一番レッスンが多くて厳しいモダンバレエスクールに入れられました。もちろんリハビリ目的ですけど、実は母には別の目論見もあったんです。当時の私はちょっとグレていて、補導されることもあって。放課後、非行少女を野放しにしておくぐらいならスクールに収容しようと。まんまと乗せられて今に至る、みたいな(笑)

【写真】インタビューに答えるやまだうんさんと大笑いしているライターのにしぶまりえさん

非行少女のうんさん、めちゃくちゃ想像できる!と大笑い

しかし当初、うんさんはバレエを楽しめていなかったといいいます。

私にとって、バレエはスリルがなかったんです。 それにジャンプ一つとっても私の方が高く跳べているのに、私の方が美しくないってのも分かるんですよ。勝ち負けも点数もない世界での楽しみ方が、私には理解できなかったんですね。

体操とバレエ、それはうんさんにとっては似て非なるものでした。競技から表現に変わった途端、どう立ち振る舞ってよいのか分からなくなってしまったのです。友達に悩みを打ち明けてこなかったうんさんは、感情を外の世界で表すことに慣れていませんでした。

それでも休むことなくバレエのレッスンを続けたのは、リハビリの要素が大きかったといいます。それに、日々つきまとう関節の痛みから逃れるためには、動いていた方が楽だと早い段階で気付いていました。目下の痛みと未来の不安から解放されるために、うんさんは踊り続けました。

止めたら関節が固まって体が退化していってしまう。その強迫観念から、とにかく休まず続けようと思っていました。踊りが嫌いでも表現が下手でも、楽しい瞬間って絶対あるんですよね。90分のうち、1分だけでも。先生や先輩の素晴らしい舞踊を見て、心を動かされることもありました。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるやまだうんさん

今でも踊りは、リウマチと切っても切り離せない関係

現在の症状について話を聞くと、リウマチはステージ1から4まで症状の進行度が分かれており、うんさんはステージ2(軟骨が薄くなり、関節の隙間が狭くなっているが骨の破壊はない状態)とステージ3(骨・軟骨に破壊が生じた状態)の間くらいにいるとのこと。

お話を聴いている途中にも、何度か手足をほぐすような仕草を見せたうんさん。

動かないレベルではないけれども、全身の50~60カ所の関節がキューってきしむように痛むんですよ。手の指・足の指の一部は、壊れちゃったところもあります。一度崩壊すると自然には治らないんですよね。

【写真】インタビューに答えるやまだうんさん

痛みから逃れるために踊っていた中高生の頃。今でも踊り続けているのは、いつしかそれが手段ではなく、踊り自体が好きになっていたからなのでしょうか。

その質問に、うんさんは少し頭をひねりながらこう答えました。

これが、切っても切り離せないんですよね。もちろん楽しくて踊っているけれども、やっぱりリハビリ要素もある。今でも踊らないと圧倒的に具合が悪くなるんです。

私はうんさんから「踊る理由」を聞き出そうとしてしまったけれど、うんさんにとってダンスは、あえて考える必要もないくらいに生活の一部になっているのでしょう。「好きだから」「リハビリのため」と白黒つけ切らず、物事のグラデーションを認めるうんさんに、このとき表現への誠実さのようなものを感じたのでした。

世はバブル期、無茶をしたサラリーマン時代とNYでの生活

うんさんはアーティストとしてのキャリアを長く歩んできたのかと思いきや、民間企業で働いていた経験もあるのだそう。大学を卒業すると、“普通”を求めていた両親の気持ちを汲み、大手証券会社に就職します。学校では教えてもらえなかった世の中のお金の流れ方を知ることができ、働くこと自体は楽しかったと当時を振り返ります。

しかし、証券会社の営業はストレスの多い仕事。関節の痛みも相まって、もともとやんちゃな気質があったうんさんの生活は荒れていきました。

よし!体も痛いし、もう酒を飲もう!そうしたらきっと治るはず!と根拠のない持論で、通院をやめて遊びに没頭しました。仕事帰りには毎日飲み歩いて、給料も全部飲み代に消える感じ。もちろんどんどん悪化します。2年ぶりに病院に行ったら、当たり前ですけどめちゃくちゃ怒られました(笑)

【写真】笑顔でインタビューに答えるやまだうんさん

勝手に治療を辞めると、同じ治療法が二度と効かなくなってしまうんですよ。だからその瞬間は後悔するんですけど、大きな人生の流れの一つという意味ではこれが後悔していなくて。それくらいバブルが楽しかったんです(笑)

うんさんは“やってしまった”思い出を語るかのように笑いながらこう続けます。

リウマチって膠原病(※全身の複数の臓器に炎症が起こり、臓器の機能障害をもたらす一連の疾患群の総称)の一つで自己免疫疾患なんです。やっぱり現実逃避していたんでしょうね。弱った身体に酒は飲むわタバコは吸うわで、肝臓と膵臓がボロボロになっちゃって、会社を辞めることにしたんです。

うんさん節につられ私も爆笑していますが、よく考えると全く笑える内容ではない

体調を崩したこともあり、会社員として働いていたうんさんは、ある日ふと別のエネルギーの使い方をしてみたいと思い付きます。持ち前の決断力と行動力を発揮し、すぐに退職。その翌日にはかねてから憧れていたダンスの聖地・ニューヨークに飛んでいっていました。

退職金を握りしめて舞い降りたニューヨークの地。一流のレッスンや舞台が手に届く距離にあることに、心が震えるくらい感動したといいます。日本人とは違った大きな体格の人々や、遺伝子レベルで刷り込まれていることを思わせるリズム感覚。ニューヨークで出会ったダンサーたちは、うんさんを圧倒しました。

ご飯代を削って舞台やレッスンに注いでいたので、やっぱりニューヨークでも体調を崩しちゃって。栄養失調でガリガリになって3カ月で帰国しました。でも、次来るときは仕事で来るんだって誓いましたね。

本当はもっと長くいたかった。けれども刺激に溢れた憧れの場所だったからこそ、自分がもっと大きくなってから帰ってきたいという思いもありました。この10年後、うんさんは宣言通りダンサーとしてニューヨークを訪れています。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるやまだうんさん

帰国後に経験した、はじめての「指導側」

ニューヨークから帰国したうんさんは、振付家を志すようになっていました。踊りを続けながらさまざまなアルバイトを掛け持ちしていた頃、最初にダンスを習い始めた教室に声をかけられ、子どもたちにダンスを教えることになったのです。

これまで多くのレッスンを受けてきましたが、自分がレッスンを持つことは初めての経験でした。

相変わらず表現に苦手意識は持っていたけれども、子どもたちを前にしたらもうそんなことは言っていられませんでした。例えば、高く跳んで!と言うとき、「高く跳んでー」とテンション低めに言っても彼らは絶対跳んでくれないんですよ。でも、「もっともっと高いところ~!!」と自分自身が全身をめいっぱい使って伝えれば、子どもたちもついてきてくれる。

子どもたちに教えているうちに、うんさんは大切なことに気が付きました。

人から学んでいる間の私は、表現なんて一つもやっていなくて、感情と身体を結び付けるって行為ができていませんでした。私が踊りを本当の意味で学ぶのは、自分が指導する立場になって3~4歳の子が目の前にいるときから始まったと思うんです。それに気付けたことが、表現者としての第一歩になりました。

けれども思い返してみると、無意識のうちに感情と身体が結び付いていた経験もありました。証券会社の営業をしていたときのことです。

お客さまの大金を預かる中で、ときには損をさせてしまうこともあって。もちろん謝るけれども、謝ってもお金は戻ってこない。でも謝るとき、本当に心から申し訳なく思っていたら、身体は謝り方を教えてくれるんですよね。表情も含めて全身で謝れば、謝意は必ずお客さまに届く。子どもたちから学んだことは、これと一緒だなって。

はじめに心があって、体が動く。そう学んだうんさんは、踊りと振付にますます磨きをかけていきました。

【写真】腕を伸ばしているやまだうんさん

バセドウ病やがんを経験するも「大したことない」

うんさんは振付家としてもダンサーとしても実績を重ねていき、ダンスコンペティションで賞をとったり海外ツアーが決まったりと、着実にキャリアを積み上げていきます。34歳のときには、ダンスカンパニー「Co.山田うん」を設立し、意欲的に創作活動に励みました。

しかし、36歳を過ぎた頃、うんさんの身に次々と新たな病が見つかります。

ほとんど全てが膠原病でした。リウマチ患者は甲状腺疾患になる確率も高いと言われているので。まずは、目が乾いていってしまうシェーグレン症候群、動悸がして目が飛び出てきてしまうバセドウ病、それに調べたら甲状腺がんも見つかりました。リンパ節にも転移していたので、甲状腺の摘出と首のリンパの一部を切る手術もしました。

【写真】インタビューに答えるやまだうんさんとライターのにしぶまりえさん

うんさんは、ダンスのことを話していたときと同じ口調で、淡々と病気の話を続けます。

今はバセドウ病とは真逆の橋本病にかかっています。毎日薬を飲んでいるんですけど、それを飲まないと今の10倍くらい動きが遅くなって、筋肉が徐々に動かなかくなって、ろれつが回らなくなり、肌がカサカサになって顔つきも変わっていく、それが橋本病です。

病気の辛さや憂いを1ミリも見せないうんさん。その理由を聞いてみると、こんな答えが返ってきました。

病気になって私が感じたのは、自分以上に周りがビックリしたり心配したりするんだなって。私自身は薬を飲んでいれば普通に生活できているから大丈夫なんですよ。だから、ぜひ私は「色々病気してても大したことない」ってメッセージを伝えたいです(笑)

【写真】笑顔でインタビューに答えるやまだうんさん

がんと知らされても「あ、そうですか」としか思わなかったうんさんですが、一連の病気でバセドウ病には最もショックを受けたそう。

なんでかってというと、バセドウ病って目が飛び出てくるんですよね。自分の顔が、日に日に見たことのない容姿になっていくのは耐えられなかったです。今はだいぶ分からなくなったけど、当時は本気で整形を考えたくらい。

目が出てきてしまうことへの嫌悪感を抱いていたうんさんは、その数カ月後にはメガネコレクターになっていました。面白いメガネを集めることに楽しみを見出したのです。

そうするとほら、みんな私の目よりメガネに視線が行くでしょ? だから「そんなメガネかけてるから誰か分かんなかったー!」という方向性に持っていく魂胆です(笑)

病気になってもあっけらかんとしていたうんさんが、目が出てきてしまうことに落ち込んだ理由は、単に美醜の価値観によるものだけではありませんでした。周囲に“気付かれてしまう”ことが嫌だったのです。

リウマチの痛みやがんは自分から言わないと相手には分からないけど、ビジュアルが変わると分かっちゃうじゃないですか。辛さは隠していた方が、私自身が楽しいんですよ。辛そうな顔をして「今いっぱいいっぱいなんだな」って心配されるより、いつも通り私に期待しててほしいんです。

これを聞いて、表には出さないうんさん自身の中にある葛藤を感じました。周囲に弱っている自分を見せることで、仕事や遊びのチャンスを逃してしまうのは何としても避けたい。そう思っていたときの私自身と重ねると、目の前にいる終始笑顔のうんさんは、決して底抜けに明るいだけの人には見えませんでした。

うんさんは病気を経験する中で、いろいろな感情を抱く自分、強い自分も弱い自分も受け止めつつ、自分の姿勢を選んでいる。私にはそんな風に見えました。

【写真】笑顔のやまだうんさん

私の逆境は、病気じゃない

うんさんにとって「病気」とは、どんな存在なんだろう。そう尋ねると、うんさんは一呼吸置き、こう続けました。

正直に言って、私は“逆境”を語りたくないんです。というか、私の逆境はそこじゃない。外から見たら不運かも知れないけれど、私にとって、リウマチ、がん、膠原病というのは、きっと他の人にとってのインフルエンザや花粉症に近いものだと思います。私がマイノリティを感じている部分は、実はもっと別のところ。例えば、教室に40人もいるのに本音で話せる友達が見つからなかったこととか。

うんさんはリウマチや膠原病による経験から、ダンサーとしてのメリットさえ見出していました。

50~60カ所にも渡る関節を“痛い”と感じられるのは、ダンサーとしてはかなりいいレッスンなんですよね。今、自分の身体のどこが動いているかを感じることができる。手足も、頸椎も、股関節も全ての関節がクリアに分かるんです。私はきっと、健康な肉体のダンサーよりも何倍も関節の感覚を知っているはず。だからマイノリティっていうよりも、“お得”な経験させてもらっているんです。

【写真】街道で笑顔で立っているやまだうんさん

確かに、橋本病だって薬飲まなきゃ大変ですよ。どんどん老化していくから。でもそれってある意味、この年齢で先におばあちゃんを経験したってことじゃないですか! お年寄りはどんな姿勢でどんな速度で歩くのか、つまさき重心なのかかかと重心なのか、それを身体を通して分かっているので、リウマチや甲状腺のおかげで俳優への動作指導にかなり役立っているんです!

病気を逆境ではなく、“体験”として活かしてしまおう。どんな出来事が起こっても、変わっていく毎日を表現活動に昇華させる。それが、うんさんの病気に対するまなざしでした。

変わることは、よりよく生きること

どんなときでも、それがたとえがんの闘病中であっても、苦しんでいる姿を見せなかったうんさん。ただ、頭ではそうしたいと思っていても、痛み、吐き気、不自由さなどが伴う実際の病気との生活は苦しいものです。強くいられる秘訣は何なのでしょうか。

私は病気と1対1の関係になったことがないんです。1対1だと、どんどん病気の存在感が大きくなっていっちゃうんですよね。病気ってすごく強大なパワーを持っていて、○○病とか○○がんとか、そのワード自体が自分が思っている以上に自分をむしばんでいくんですよ。病気と面と向かうと辛いじゃないですか。だから、“私と病気”だけではなく、そこに“踊り”があったことは大きいですね。

リウマチと診断されたときから、ダンスと二人三脚で人生を歩んできたうんさんならではの解決法です。優しい口調で、こう続けます。

私たちには両手がある。だから、右手に病気を持つなら、左手は何か別のものを持ってもいいんじゃない?

【写真】笑顔のやまだうんさん

リウマチに膠原病、本音を話せる友達のいなかった中学時代、無茶をしたバブルの頃の思い出、感情と身体の結びつきを学んだ子どもたちとのレッスン。その全てを共に過ごしてきた「踊り」は、ときに挑戦の場であり、ときに拠り所になっていました。

踊りって、楽しいけど苦しい。気持ちいいけど恥ずかしい。人生みたいなんです。そうそう、“一生”って言葉あるじゃないですか? それでいうと私、もう“五生”くらいやってると思うんですよ(笑)。リウマチになる前の自分となった後の自分、甲状腺疾患になる前の自分となったあとの自分は、全部違う人の人生みたい。考え方も体のシステムも変わるし、人との付き合い方も変わる。綺麗な一本の線にはならないんですよ。

変化を恐れないこと。その姿勢こそがうんさんの魅力なんだと気付きました。今日の自分が昨日の自分と違ったとしても、変化を受け入れて自分を楽しい方向へと連れていく。

これからもまだまだ変わっていくと思いますね。止まったら、死ぬから。病気がついてこられないくらいに、変化し続けようと思います。

1時間半のインタビューでうんさんエキスをたっぷりといただき、息ぴったりのポーズに

変わることは、よりよく生きること。

「今」にいつも夢中になっているうんさんからは、「後悔」の二文字を一切感じませんでした。

これまで自分が正解だと信じてきた道から外れることは、とても勇気がいることです。積み上げてきた「過去」は、ときに自分を守ってくれる存在だから。でも、同じ価値観を守り抜くことだけが素晴らしい人生ではありません。自分が決めた“正義”が自分を苦しめているのなら、“正義”の軸をちょっとチューニングすればいい。

痛みに勝てずに苦しんでいたときの私は、自分の中の正義が「頑張る」という一択しかありませんでした。頑張ることに必死になってきた人生だったから、「頑張れていない」自分を許すことができなかったのです。

いろいろな人の価値観や生き方を肯定するように、私の中にある多様性も認めてあげよう。「強い」自分がずっと無かったことにしてきた、寂しさ、繊細さ、不安定さといった「弱さ」を見つめてみよう。裏側にある感情を受け止めることで、本当の意味で「強く」なれるはずだと信じています。

病気でも、病気じゃなくても、自分の人生を楽しくするのは自分。何を選ぶかはもっと自由でいいんだと、うんさんの生き方が教えてくれました。私ももっと肩の力を抜いて、「変化する私」を楽しんでみようと思います。

関連情報
山田うん Twitter ブログ
ダンスカンパニー「Co.山田うん」 ホームページ Twitter

(写真/川島彩水、編集/徳瑠里香)