【写真】笑顔で立っているとうどうやすひろさんとすずきゆうへい

あの人に比べたら、自分の辛さなんて大したことないんじゃないか。私はなんで、こんなに些細なことが苦しいんだろう。病気じゃないんだから、甘えちゃいけない——。

ちょっとしたことで悩んだり、立ち止まったりしがちな性格。我ながら、そんな自分をとことん面倒くさいと感じることが度々あります。

こんなに恵まれた環境で健康に楽しく働けているというのに、「しんどい」と感じてしまう。そんな瞬間には、小さな罪悪感すら抱いてしまうことも……。

他の人たちと比べて「自分は大したことない」と、”過剰な謙虚さ”を持ってしまうんですよね。診断があってもなくても、自分が自分として「苦しい」「辛い」と感じているのは事実なのに。

そう話すのは、NPO法人soar 理事の一人である鈴木悠平。

2014年から株式会社LITALICOに勤め、発達障害に関するポータルサイト「LITALICO発達ナビ」の企画・編集を担当している彼は、2018年の夏、「適応障害」と診断されました。現在、自分と向き合いながら、リカバリーを進めている最中です。

傷ついた気持ちや悲しみは、そもそも他人と比較するものじゃないんです。それは人それぞれ、完全に固有のものだから、症状の重さやエピソードのレベルは関係ない。うつじゃなくたって、みんなもそれぞれに辛かったり、苦しかったりするよね。

以前、『soar』の単独インタビューに登場いただいたこともある、東藤泰宏さん

IT系の会社に勤めていた20代の頃、自分でも気づかないうちに働きすぎて、ある日突然うつ病を発症。その後みずから、うつ病の人たちのためのオンラインコミュニティ「U2plus」を立ち上げました。2016年に事業を譲渡してからは、再び会社員に。もう10年以上、うつの症状ととなりあわせで生きています。

それぞれの症状を抱えながら、日々の生活を送っている2人。しかし東藤さんも鈴木も、病気を発症する以前から、人生の中で「生きづらさ」を抱えていたといいます。

そもそも、「病気だから苦しい」「回復したから大丈夫」……そうした“向こう側”と“こちら側”を区切る境界線って一体どこにあるのでしょうか?

今回はそんな一つの疑問をテーマに、これまでの人生のこと、リカバリー(回復)の状況、「はたらく」ことの意味——そして、“未来”について考えていることを、東藤さんと鈴木が語り合いました。

【写真】インタビューに答えるとうどうやすひろさんとすずきゆうへい、ライターのおおしまゆうさん

自分で立ち上げた事業を譲渡して、再び会社員に

鈴木悠平(以下、鈴木):東藤さんの経験について『soar』でインタビューしたのは、もう2年前(2016年5月)になるんだっけ。

東藤泰宏さん(以下、東藤):そう、今となっては、あの記事の方が、僕の記憶より正確なんじゃないかと思いいます。実は、うつになった当初のことをあまり覚えていなくて。10年以上前ですからね。

鈴木:「U2plus」の事業を譲渡したばかりだったかな。あのときはちょうど、うつの症状から抜け出せたかも? という状況だったと思うけど、最近はどうですか。

【写真】笑顔でインタビューに答えるとうどうやすひろさん

東藤泰宏さん

東藤:当時はもう一度、自分でサービスを作ることも考えていたんです。でもご縁あってCAMPFIREに入社し、新規事業の立ち上げなどに携わっていました。さらに今年(2018年)8月からはまた職場を移って、いまはインフォコムという会社で働いています。お仕事の内容は、また新規事業の立ち上げですね。

ただ、まあ……この2年間、仕事もプライベートも本当に色々あったから、ようやく「自分の人生、落ち着いてきたな」と思えるようになったのは、ここ2ヶ月くらいかなぁ。つい最近ですね。

鈴木:リカバリー、進んでるよね。

東藤:うん、いろんな意味で進んでいます。

鈴木:僕たちが出会ってよく話すようになったのは、たしか東藤さんが「U2plus」を事業譲渡した後、soarの記事が出るちょっと前くらいでした。

東藤:そうだね。仕事じゃなく話す機会が何度かあって、仲良くなった感じ。

鈴木:それ以来けっこう、いろんなことを話してるよね。ちょうど昨日も、2人で「リカバリー(回復)」について話していたけど。同じリカバリーの中にも、臨床的なものとパーソナルなものがある、という話ね。

東藤:ああ、そうだった。「臨床的なリカバリー」というのはその名の通り、病気自体、身体的な回復を指しているものだけど、一方で「パーソナルなリカバリー」も重要なんだと。

鈴木:つまり、単純に症状の改善だけではカバーできない範囲のことですね。

東藤:そう。パーソナルなリカバリーには、自分が他者とどう関わるかとか、将来に希望を持てるかとか、そういうことが含まれるそうです。そしてパーソナルなリカバリーの中にはさらに、主観的なものと客観的なもの、両方がある。前者は「自分にも何か社会に対して提供できる価値があると思えるか」とか。対して後者は「仕事には行けている」「一人暮らしができる」とか、そういうこと。

僕はもう10年以上、難治性のうつ症状を抱えたまま生きてきたから、ずっと臨床的なリカバリーが追いつかなかったんだよね。でも、パーソナルかつ主観的なリカバリーは結構昔からすごく進んでいて。ふつうは臨床的なリカバリーが進んで、その結果としてパーソナルなリカバリーが進むと思うのだけど。ようやく双方のバランスが取れはじめたのがここ2ヶ月くらい、という感じかな。

2018年夏、はじめて「適応障害」との診断を受けた

鈴木:そういう観点でいうと、僕はまだ臨床的にもリカバリーできてない段階かな……。だいぶ良くなってはきているので、トンネルの出口は見えている感覚だけど。

東藤:悠平が「適応障害」と診断されたのは、今年(2018年)の夏だったっけ?

【写真】質問に丁寧に答えるすずきゆうへい

鈴木悠平(NPO法人soar 理事)

鈴木:そう。お医者さんからの明確な診断がついたのは、実は今回がはじめてで。本来、器用なタイプでもないのに会社でマネージャー職を複数引き受けたりして、無理しすぎたのかもしれない。会社の人たちには診断が出たあとすぐに共有して、今は業務負荷を減らしつつ、回復に向かっている感じ。

東藤:まさに、臨床的なリカバリーの真っ只中だ。

鈴木:そうですね。

東藤:最近、仕事はどんな感じでやっていたの?

鈴木:僕はLITALICOに2014年に入社したから、今年で5年目。LITALICOには、不器用さを許容してくれたり、つまずいてもみんなが助けてくれたりする環境があって。そこで自分なりにもがきつつ、編集することや文章を書くことを、ひとつのわずかな足場としてつかむことができたと思っています。

でもどこかで無理していたんだろうな。「過剰適応」というか、自分で色々背負い込んで結果的にがんばりすぎて、今年に入ってから心身症状が出るようになっちゃったんですよね。今まで溜めていたものの噴出だと思うんだけど。

東藤:本格的にしんどくなる前から、なにか対策をするってできるものなのかな? 「LITALICO発達ナビ」とかの編集長をしていたわけだから、その辺の知識自体はあったとは思うけど。

鈴木:そうだね。やっぱり知識が人を救う部分はあると思って、今回も自分で症状を自覚して早めに受診できたことが良かったと思う。主治医の先生にも、「うちに来る時点ですでに分析ができていたね」と言われたし。

ただやっぱり、診断がつく前は、本当はしんどい思いをしてサインを発している自分の心や身体にちゃんと耳を傾けていなかったなとは思う。夏に北海道・浦河の「べてるの家」に行って、ようやく腑に落ちた感じ。

必死に自分を変えようと、繰り返した“極端な選択”

鈴木:そもそも2人とも、それぞれ「うつ」「適応障害」という診断がつく以前から、日々の暮らしの中で“生きづらさ”を感じてきたタイプなんじゃないかな、と思うんですよ。

東藤:うん。僕の人生を振り返ると、学歴も職歴もすこし複雑なんですよ。だから、ずっと生きづらさはあったかな。

さらにうつになって10年以上たつから、病気になる前の細かいことをあんまり覚えてないし、どこから語っていいかわからない。

鈴木:僕は30年間ずっと、”マイルドな生きづらさ”とでも言うべきか……病気の診断や社会的マイノリティとしての属性があるわけではないけど、ずっと「周囲にフィットできないなぁ」という感覚を抱えて生きてきて。

東藤:経歴だけ並べてみると、悠平はすごいんだよね。東大出身で、そのあとコロンビア大学の大学院に行ってるからね。

鈴木:履歴書だけ見ちゃうと、まぁ、ね……。でも学校生活してるあいだはずっと、集団の中でフィットしない感覚があった。過去の部活やサークル、恋愛なんかも、最初は順調なんだけど、だんだんうまくいかなくなることが多かったから。

LITALICOでの仕事をはじめてから、「あ、これ俺じゃん」ってわかったんだけど、ADHD(注意欠如・多動症)の傾向もあって。振り返ると「うわ~衝動性出てるな」みたいなエピソードが多々……。

東藤:ちなみに、学生時代はどんなことを考えて進む道を決めていたの?

鈴木:ものすごく極端なの、僕。中学生のときは典型的な文化系で、吹奏楽部。でも、なよっとした自分を変えたくて、高校ではいきなりラグビー部に入る、みたいな。

東藤:極端だなー(笑)。

【写真】笑顔でインタビューに答えるとうどうやすひろさんとすずきゆうへい

鈴木:めちゃくちゃ運動音痴なのでうまくいかないわけですよ。で、下手なりに死にそうになりながらどうにか3年間ラグビーをやった。みんなにお世話になった……というか迷惑をかけてばっかりだったから、恩返しをしたいと思ったんだよね。卒業する前に。

運動がダメなら、もう勉強しかない。それで今度は、「俺は東大に行って政治家になる!」と急に言いだした。

大学に入ってからは、ゼミとかサークルとか、いろいろと積極的に顔を出して視野を広げようとして。行動力や言語化の力はあるから、気づいたらいろんな場のリーダー的な役割を掛け持ちするようになったんだよね。

でもこれも、ADHD的な瞬間最大風速なわけで、早晩キャパオーバーするわけですよ。それで一緒に活動しているメンバーの信頼を失ったりして、超病む、みたいな。あー、あと、だいたい節目節目でひどい失恋をしていますね(笑)。

東藤:そう、わかる。失恋はね、人生を変える気がする。

鈴木:進路としては、一度は公務員試験を受けて外交官になろうと思っていたのだけど、大学4年生の頭に、これまた酷い人間関係上の失敗があって……。

「俺はなんてダメ人間なんだ! 自分のことを誰も知らない場所に行って修行し直す!」みたいな発想で、急に海外大学院を受けるとか言い出した。当時の僕には海外志向も進学希望もなかったけど、まぁ、“逃避”ですね。

こうやって振り返ると、もうなんか小・中・高・大と、10〜20代はずっと黒歴史の連続だな。

東藤:ただ、逃避といっても、一つひとつの選択は、決して後ろ向きに逃げているわけじゃないよね。

鈴木:ああ、そうだね。その都度、自分なりに立ち向かってはいたと思う。確かに極端な選択の繰り返しなんだけど、「なんとか自分を変えたい」と必死だっただけで。

後退するのではなく、“ナナメ前へジャンプする”

東藤:悠平はなんか、人生いろいろ不器用だけど、何か壁にぶつかっても後退はせずに、”ナナメ前”くらいにジャンプする感じで乗り切ってきているよね。

鈴木:あー、ナナメ前、そうだね確かに。でも、前回のインタビューにあった、東藤さんが「U2plus」を立ち上げたときのエピソードからも、そんな印象を受けたんだよね。客観的にみるとすごく大変な状況なのに、立ち止まらず、後退するわけでもなく、“ナナメ前にジャンプする”。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるとうどうやすひろさん

東藤:数年前に、精神病棟に入院したんだよね。最初はもう身体がボロボロで、ちゃんと立って歩くことも、看護師さんの話を聞くことすらままならない状態だった。入院前は主治医から、「生活保護の相談をしたほうがいい」ともいわれていました。無理に仕事するのではなく、まずは臨床的なリカバリーが大事だ、と。でも結局、病院で仲間を作って、新しい事業の構想を考えたりしてた。

鈴木:そんな状態でも、きっとそのとき東藤さんの前には、「事業をつくる」という道しかなかったんじゃない? 

家入一真さんがよく言っているよね。起業家の中には社会不適合者も一定数いて、やむにやまれずその選択肢しか取れないことも多いんだよ、と。

東藤:うん、他に選択肢がなかった。ただ、U2plusで起業したことが成功だったかどうかは、実はよくわかりません。誰かを助けられたのは確かだし、可能性が広がったのもそうなんだけど、自分や周囲を幸せにできたのかという問いは今も心に残っている。

そういえば、事業を譲渡したあとに転職エージェントに登録してみたら「あなたの経歴だと、この仕事しか紹介できません」と、唯一渡されたのが、文房具屋さんの受付だけだったんだ。

鈴木:ああ——。

東藤:その当時の自分の状況だと、一般的な転職マーケットに僕の居場所はないんだな、と実感した。起業家のセカンドキャリア、やばいなと思った。結局CAMPFIREの社員になって、会社員として働きだすんだけど。

鈴木:ちなみにCAMPFIREではどんな働き方をしていたんですか?

東藤:最初はもうひたすら「どうやって生き延びようか」とか、そういうことばかり考えてた。「どうやって週5回、会社に行こう?」とか。「8時間働くの無理だな」とか。そこから(笑)。

新規サービスを企画して立ち上げる1人チームだったんだけど、最初は週4日の出勤からはじめさせてもらって。だんだん、「どう生き延びるか」に加えて「仕事でどう成果を出すか」と考えられるようになったんだよね。ローンチした事業の数値も最初はしんどかったけど、仲間に恵まれていい感じに伸びてくれたし。

起業まではみんな応援してくれると思う。そのあと、事業を閉じたときに、その起業家はひっそりと消えてしまうパターンがよくあると思うんだよね。

でも僕はうつになったあと起業して、それを譲渡し、今度はまた会社員になった。事業を譲渡した直後は転職マーケットからはみ出していたけど、一度会社員に戻って、今度はよい条件で転職もできた。“バック・トゥ・ザ・日常!”、それもいいじゃん、みたいな。日常に戻るケースがあると、今なにか思いがある人が、非日常に飛び込みやすくなるよね。

「はたらく」ことが、自分の生を肯定してくれる

鈴木:東藤さんにとって、「はたらく」ことがどんな意味をもっているのか聞いてみたい。経済的な面は当然として、それ以外に。

東藤:人とつながる機会かな。自分で事業をつくったときも、CAMPFIREでもそうだったけど、自分が担っているミッションをベースに、見知らぬ人たちとつながれる。そして仕事の種類にもよるけど、とくに外部とつながる起業家とか新規事業創出は、仕事でたくさんの人に会う。場合によってはかつてのユーザーとも出会う。

取引や仕事ですったもんだした後に、でもゆるやかなつながりが残る人もいる。だんだん仕事が関係なく仲良くなっていく。そういう人たちと、また改めて仕事する機会があったりすると、本当に楽しいなって。

【写真】真剣な表情で話すとうどうやすひろさんと微笑んでいるすずきゆうへい

鈴木:つながることで、自分の生を肯定してくれる、みたいな感じかな。

確かに僕も、はたらくことで社会とつながっている感覚が強いかもしれない。フィットしない感覚はずっとあったんだけど、どうあれこの世に生まれてしまったからには、一緒に生きていく人たちと、ポジティブな関わりというか、なにか貢献できるようになりたいという思いがあって。

そのかたちは給与や上司からの適切な評価かもしれないし、ユーザーの方からのお礼の声かもしれない。そうしたものの存在が、人が生きることに影響しているんですよね。

東藤:うん、本当にそう思う。

鈴木:働くことによって、自分の回復、リカバリーにつながってる感覚はある?

東藤:うーん。本当はね、仕事の役割や評価なんて抜きに、一人の人間として存在を認めたいし、仲良くしてほしいですよ。ただ、逆説的だけど、そういう関係を築くための手っ取り早い手段が「仕事」なんだよね。

仕事を通じて自分という人を知ってもらったり、他人を理解したりするから、僕はいい感じに生きられていて。

鈴木:仕事をすると、自然と関係が深くなりますからね。ただ仕事だと、例えば「責任を果たす」という意識などが行き過ぎてしまうこともあるわけだけど。

東藤:あ、それで僕、うつになったんだった。

鈴木:そうだよね(笑)。

東藤:でも今はね、本当に悪化する前に、心身症状がブレーキをかけてくれるところはあるかも。それに、パートナーが止めてくれるから。「自分はこういう行動をしすぎる」と認識しているうえで、なおかつそれを自分で止めるジャッジをするのはね、かなり難しいし、しんどいんですよ。

鈴木:うん、パートナーの存在は大きい。僕は28歳のときに結婚して、去年末には子どもも生まれたんです。それ以来、自分の安心基地ができた感覚があるかもしれない。

妻から「あなたは働きすぎだから、もう寝なさい」みたいなことを言われてはじめて、自分の状態に気がつくこともある。ありがたいですね。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるすずきゆうへい

東藤:悠平はパートナーとか周りの人たちと、どうコミュニケーションをとってるの?

鈴木:僕はもともと口下手だったから、適応障害になる前から、自分がしっくりこないことを文章にして発信し、サバイブしてきたところがあるかもしれない。違和感を感じたことをなかったことにしない、とか。

ただ、発信のバランスは気をつけなきゃいけないよね。いま僕は職場のメンバーと体調などをこまめに共有しているんだけど、これはあくまで、「みんなと一緒に働き続けるために、お互い知っておいてほしいこと」の一つとしての情報共有。

職場はやっぱり治療やカウンセリングの場ではないので、「今こういう状況だけど、こういうことはできるし、こういうことは助けてほしい」といった風に、チーム全体でどう働くかということを考えなきゃいけない。

今ってSNSとかブログで誰でも全世界に発信できるけど、ちょっとバランスを間違えると、自分の身を切り刻んで注目を集めるような、悪循環に陥ってしまう可能性もある。そのやり方では、周囲も自分もそんなに救われないじゃない。

東藤:確かに。でも本当は病気とは関係なく、一人の人間としてどう感じているかということや、コンディションなど、自分自身にとって安全を確保するための相互のアクションって大事なことなんだけどね。もっと日常レベルでね。

鈴木:そうそう。東藤さんもそうだと思うけど、自分一人が、「うつ」「適応障害」という病気のすべてを背負う必要はないから。

東藤:うん。それは大事。

鈴木:それにもう一つ。パートナー、斜めの友人関係、会社、社外のカウンセリング……社会との接点を複数もっておくことも、大切な生存戦略の一つだと思う。どうしても、自分一人だけで考えていると視野が狭くなるから。

東藤:そうだね、それもあるよね。

鈴木:社会や人とのつながりが、一つひとつ網目のようになって支えてくれること。それが「パーソナルなリカバリー」につながっていくんだろうな。

自分の感じる辛さや苦しみを、人と比べないでいい

鈴木:「社会や人とのつながり」に加えて、僕は、自分にとっての「当事者性とは何か」を考えることが大切だと思っていて。何を自分の物語として生きていくのか。

東藤:自分の物語、ね。

鈴木:そう。一人ひとりが持っている認識の枠組み。自分はこう生きてきて、今の私はこうで、これからこうやって生きていけるかもしれない——そうした自分自身の人生を、肯定してあげられるような文脈が描けるといいよね。

それを「適応障害当事者」というでっかい雲として捉えるんじゃなくて、ちょうど過不足なく、自分の等身大の小ささに転換できるといい。うつや適応障害になった自分を、無視したり捨てたり否定したりしなくてもいいし、必要以上にとらわれる必要もない、という。

【写真】笑顔でインタビューに答えるとうどうやすひろさん

東藤:そういえば僕、はじめて受診した精神科医に、ものすごくチャラく軽い感じで「あ、うつはね、治るから大丈夫だよ〜!」と言われたことがあって。なぜかすごく腹が立ったんだよね。

考えてみると、僕は一般論として、「大丈夫、うつは治るよ~」と言われたかったわけじゃない。話を聞いた上で、「あなたなら大丈夫、あなたならできる」という言葉の方がきっと大事だったんだと思うんだ。

鈴木:うんうん。それが、パーソナルなリカバリーでは大事なことだと思う。

そして「自分の物語」を生きていくためにも、自分にとって辛いことや違和感のあることを、謙虚に過小評価しすぎなくてもいいと思っていて。大事なのは、その辛さが自分にとってどれぐらい大きなものなのかどうかということ。絶対値としての大小があるのではなく、みんなそれぞれの体感値があるんだから。

東藤:そうだね。傷や悲しみは、すべてその人固有のもの。人と共有できなくて苦しいこともあるかもしれないけど、だからといって盗まれもしないじゃない。そもそも、他人と比較するものではないんだよね。相対的にどうか、ではなく、自分にとってどういう意味をもつか……ということでしかない。

鈴木:そう。”体感重力”なんですよ。みんな、それぞれにとっての体感重力の中で生きてるから。

東藤:そもそもうつじゃなくたって、みんな辛いことや苦しいことを抱えて生きてるじゃないですか。病状の重さや、エピソードの重い軽いはないってこと。

「パン」や「薔薇」を、それぞれが自由に選んで生きていく

鈴木:いろいろなトピックが出てきましたが、最後にもう一度、パーソナルなリカバリーと臨床的なリカバリーについて話しましょうか。

東藤:僕は臨床的なリカバリーはまるでできていなかったけど、パーソナルのリカバリーが相当進んでいたから起業できたと思うんだよね。だから、医者からみたら変な患者だったと思う(笑)。

鈴木:変な患者(笑)。でも、必ずしもどちらが先かとか、どちらの方が大事という話ではないんだろうね。

キリストの言葉で「人はパンのみにて生きるにあらず」というものがあるけど、だからといって、人は物語のみでも生きていけないから。

臨床的なリカバリーも、それはそれで大事ですからね。ちゃんと寝て休める環境、栄養のある食事、お金、仕事、身体のケアもいろいろ必要。僕なんか、結婚してなかったら大変だったと思うし。

【写真】真剣な表情でインタビューに答えるとうどうやすひろさんとすずきゆうへい

東藤:「パンのみでなく薔薇も求めよう」とどこかの本に書いてあった。臨床的なものだけではなく、パーソナリティだけでもなく、全体的なリカバリーが、いつかできればいい。

鈴木:リカバリーというのはプロセスであって、みんなそれぞれのサバイバルがあるんです。たとえ同じ病気でも、置かれた状況はそれぞれ違うんだから。持ってるカードは人によって違うけど、選択肢がゼロってことはないはず。

東藤:これまでの僕の人生、決して「すべてOK」とは思わないけど、今はいいと思っています。これから、さらにがんばることが見えてきたところ。

「自分らしく生きよう!」とか考えてしまうと課題が大きくなりすぎて、選択肢が見えずに迷うけど、そこまでじゃなくていいと思うんですよ。

1年後とか2年後とか、ちょっとだけ先の未来に、ほんの少し期待できるようになるといいよね。「これをがんばったら、もうちょっとうれしい気持ちになれそう」「自分も少しなら成長できそう」とか。

鈴木:僕も、半年から1年後を目安にして、「もうちょっとこうなっていたい」みたいなことは考えますね。やはり同じ状況をそのままにしてしまうと、病気はよくならないから。ほんのちょっと先の未来を前提に、周囲とコミュニケーションをしています。

つまり……「ちょっと先の未来」に希望は持てている、ということかなと。

東藤:うん。希望、持ててるよ。

鈴木:絶望はしてないよね。

【写真】笑顔でインタビューに答えるとうどうやすひろさんとすずきゆうへい

がんばって新作を出すのではなく、「版」を重ねて更新するように

「病気じゃないんだから」「もっと辛い人だっているんだから」

私には、幾度となく自分にそう言い聞かせて、辛さ、悲しさをやり過ごしてきた時間があります。きっと、同じ経験をしている人も多いのではないでしょうか。

でもお2人の話を聴きながら、「もうちょっと、自分のことを受け入れてあげればよかったのかな」と思いはじめていました。自分の感情を、過小評価しなくていい。取材を終えた帰り道、その言葉が静かに沁みていく感覚がありました。

人が抱く感情は、本当は人それぞれ固有のもの。大勢の人がひしめきあう社会の中で生活している以上、そのすべてを押し通すことはできないけれど、みんなが自分自身の感覚や、日常で抱く小さな違和感、生きづらさのようなものを、もう少し肯定してあげてもいいのかもしれません。

大事なのは、誰かと比較するのではなく、一人の人間としての自分と向き合って、「自分の物語」を生きていくこと。

そしてその「自分の物語」には、病気の“向こう側”と“こちら側”を区切る境界線など存在しないのでしょう。どんな症状を抱え、どんな状態を行き来していようと、自分の人生がまるごと入れ替わったり、新しく生まれ変わったりすることなど絶対にないのですから。

鈴木:人生を本に例えるなら、「版」を重ねるごとにゆるやかに組み変わっていくみたいなことだと、熊谷晋一郎さんがおっしゃっていて。病気になった事実は変わらないんだけど、自分の認識はちょっとずつ変わっていくんですよね。

東藤さん:うん。「新作出すぞ!」とかじゃなくてね。自己認識が更新されていく感じだよね。

着実に更新されていく、それぞれの日常。自分自身の手にある「小さな物語」の存在と向き合ったとき、“ほんのちょっと先の未来”に、希望を見出すことができるのかもしれません。

関連情報:

株式会社LITALICO ホームページ

株式会社CAMPFIRE ホームページ

インフォコム株式会社 ホームページ

LITALICO発達ナビ ホームページ

U2@plus ホームページ

関連記事:

うつ病患者が手を取り合ったら起業もできた。うつ病オンラインコミュニティ「U2plus」創業者 東藤泰宏さんの選んだ道

病気は「隣人」だとべてるの家から学んだ。適応障害になった僕が始めた“自分助け”(鈴木悠平)

絶望だって、分かち合えば希望に変わる。熊谷晋一郎さんが語る「わたしとあなた」の回復の物語

(写真/馬場加奈子、協力/鈴木まりな)