【写真】きっさカプカプ内にあるテーブルに座り談笑するお客さんとメンバーさん。

「完璧な世界」に憧れるのは、人間の性だろうか。

整然として、余分なもののない、洗練された美しさ。

職人の手による工芸品、一流ブランドのファッションショー、トップアスリートの躍動する肉体。

理想への憧れや向上心が、人類を進歩させてきた面もあるだろう。

「完璧な世界」に挑み、自己研鑽を重ねるなかでこそ得られる体験もあるに違いない。

理想への挑戦は、芸能やスポーツの世界だけの話ではない。多くの人が働く企業の現場でも日々起こっている。

厳しい人材選抜基準、機能や役割の分担、人材育成プログラム、業務フローの効率化。個人として、組織として、日々改善を重ねて、高い成果を追求する。より良い物を、できるだけ、早く、安く、多く…。

出来ることが増えて、目標を達成する喜びはあるだろう。うまくいっているうちは居心地も良いかもしれない。だけど、業務の質やスピードに対する要求水準があまりにも高くなると、そこに適応できずにこぼれ落ちてしまう人も増えてしまう。

目指すべき水準に自分を追いつかせようと無理するあまり、心身の調子を崩してしまう人。自分の意思とは別に、「最適配置」の名目で望まない仕事や役割にパーツのように当てがわれてしまう人。無駄を排除していくことの裏には、そうしたさまざまな痛みが隠されてしまってはいないか。

理想をいったん脇において、生き物としての人間一人ひとりの現実を見てみると、たくさんの無駄や、ブレや、ゆらぎと共に生きていることに気づく。

元気なときもあれば落ち込むときもあるし、シャキッとしていることもあればのんびりしていることもある。物事の好みが一人ひとり多様なのはもちろんだが、実は同じ人間の中にも振れ幅がある。普段は洗練された美しい調度品を愛していても、気まぐれによくわからないごちゃごちゃしたオブジェを買うことだってあるかもしれない。

【写真】利用者が作ったかさおばけ飾りが天井から吊り下げられている。

今の世の中は、どちらかというと「整然さ」を要求する場所が多いように思う。もう少し「雑然さ」を許容する場所が増えていけば、それで救われる人もたくさんいるのではないだろうか。綺麗でカッコいい面ばかりではない、ブレも含めた人間そのものをおもしろがり、バラバラなものをバラバラなまま受け止める、そうした懐の広い居場所があったっていい。

色々な目的や文化を持った組織に所属し、仕事をし、また物書きとしてさまざまな場を取材をするなかで、そんなことをよく考える。

今年訪ねた「カプカプひかりが丘」は、「雑然さ」の方に振り切ったような場所だった。とっても面白くて、絶妙に居心地の良いところなので、ぜひみんなを案内したい。

ここはなんだ!?カプカプだ!

NPO法人カプカプが運営する「カプカプひかりが丘」は、横浜市旭区内、ひかりが丘の団地商店街に位置する喫茶店だ。オープンしたのは1998年。2009年からは斜め向かいに分室として「工房カプカプ」というアトリエも増設された。「生活介護事業」という分類の、福祉事業所でもある。

約20年にわたってこの団地で営業を続けてきたカプカプとは、いったいどんな場所だろう?

【写真】団地の側にある商店街。その一角にカプカプがある。

ワクワクドキドキで現地に向かったら、あった。

【写真】カプカプ店の前には、古着屋雑貨がお客さんを迎えるように置いてある。

本当に団地の中だ。ニスとペンキが塗られた木目の扉と、軒先に広がる大量のバザー品が少し異彩を放ちながらも、絶妙に自然な佇まいでそこに在る。

扉を開いて中に入ると、おお、これはまぁなんとも。小さい頃に100円握りしめて入った駄菓子屋にも、学校の帰りに遊んだ児童館にも、ジブリ映画に出てきた骨董品店にも、そのどれにも少しずつ似ていてやっぱりどこか違う、懐かしいのに新鮮な、なんだかよくわからない空間が広がっていた。

前述した軒先のリサイクルバザーだけでなく、店内にも色んなものが所狭しと並べられ、貼り付けられ、吊り下げられている。ここでの手作りだろうなと思われるイラストやタペストリーもあれば、どこから拾ってきたのかわからない奇怪なオブジェも鎮座している。値札がついているものもあればついていないものもある。

【写真】カプカプ店内の様子。

喫茶店らしくコーヒーや紅茶を飲んでいる人もいれば、ひとりカタログを読み耽っている人もいるし、小上がりで何か縫い物をしている人もいる。

かと思えば、「トイレ借りまーす」と外からトイレを借りるだけ借りて、出ていく人もいる。事務所の物らしいコピー機にも「1枚10円」と貼り紙がしてあって、コピーを取りに立ち寄る人もいるようだ。

何も知らない人がふらりと入ったら、「ここはなんだ!?」と戸惑うかもしれない。

先述の通り、カプカプは単なる喫茶店ではなく「生活介護」という枠組みで障害のある人たちが利用している福祉事業所でもあるのだが、それを知った上で来た人でも、やっぱり少し驚くかもしれない。

形式的な業態では説明できないぐらいに中にいる人たちはごちゃごちゃと混ざり合っていて、一見しただけでは誰がお客さんで、誰がメンバーさん(事業所の登録利用者)だかわからない。

【写真】きっさカプカプ内にあるテーブルに座り談笑するお客さんとメンバーさん。

僕たち一行は「取材」でここに来たわけだが、こんなに面白そうな場所で、いきなりレコーダーを持って話を聞いて回るというのも野暮な気がしてきた。せっかくの喫茶店、まずは珈琲でも味わいながらのんびりするかと、席に座って注文をした。

すると、早々に隣のテーブルのおばさんたちが話しかけてくれた。

「あなたたちどこから来たの?」
「みんなそれぞれバラバラなんですけど、だいたい東京の方から。あ、でも僕、実家がこの近くなんですよ!ほら、○○区、わかります?」
「あらそうなの、すごい近所じゃない」
「今日はここを取材させてもらおうと思って」
「テレビ?」
「テレビじゃなくて、インターネットなんですけど。写真撮らせてもらってもいいですか?」
「へー、インターネット。恥ずかしいけど、いいわよー」

同行したスタッフたちが世間話をしていると、次第に人が増えてきた。服装や立ち回りを見ると、だんだん、「あ、この人はスタッフかメンバーさんかな」と予想がつく。彼らはレジの奥にある調理場に入っていき、直に朝礼が始まった。

今回、取材をお願いしたカプカプ所長の鈴木励滋さんも到着。

みなさんも、どうぞ中に入っちゃってください。

促されて調理場内にお邪魔し、挨拶を交わす。

【写真】調理場に集まり朝礼をしているメンバーさんたち。

朝礼ではその日のメンバーの利用予定を確認し、お互いに挨拶をしたり世間話をする。歩き回ったりじゃれ合ったりするメンバーもいて、いい感じにゆる〜い空気が流れている。お互いの存在をからだ全体で感じ、確かめ、そして自然とケアし合っているような、そんな印象を受けた。

朝礼のあとは、喫茶で過ごす人、工房で過ごす人、外回りの人と、銘々に自分の仕事場所へ。

「ようこそ!」と歓待すること。あるいは、重ねた時間がつくる「雑然さ」

喫茶の席に戻り、また珈琲を飲んで一息つく。同行スタッフも店内をウロウロキョロキョロ。リサイクルバザーを物色したり、レジ前の雑貨売り場の品を手に取ってみたり。いつもより時間がゆっくり流れている感じがする。

所長の鈴木励滋さん、朝礼の後は店内すみっこにあるデスクで書類仕事をされていた。落ち着いたかなという頃合いを見てお話を聞かせてもらう。

【写真】店内のいっかくでインタビューに応えるすずきれいじさん。

黒いTシャツ、眼鏡をかけた方が、所長の鈴木励滋さん

映画や演劇が好きで、そういう世界で書くことを仕事にしようと思ってバイトしていたら、ひょんなご縁から卒業間際にカプカプの立ち上げを手伝うことになって、それが97年のことです。結局2単位足りずに留年しちゃって、働きながらもう1年かけて卒業はしたんですけど、そのままここの運営を担うことになりました。

もともと大学で政治社会学を専攻していた励滋さん。社会問題について知識としては学んでいたが、経験としては何も知らないまま障害福祉の分野に入ることになったと語る。励滋さんが生まれ育ったのは群馬県の高崎市。

当時はまだまだ、障害のある人たちの過ごす施設と、それ以外の人たちの生活圏の隔絶は大きかった。障害のある人たちと街で出会うこともほとんどなかったという。

最初は本当に、精神障害と知的障害の違いもまるでわかっていなかったわけですが…、働きだすと、とにもかくにも人間づきあいが始まりますから、みんないろいろなしんどさを抱えながら生きているんだということが体感としてわかってきます。

それでもわからなかったり、難しいなぁと感じたりする部分もあるけれど、関係を重ねていくうちに、一人ひとりが僕にとってかけがえのない存在になっていきました。

未知の世界だと思っていた「障害福祉」の仕事。いざ飛び込んでみれば、そこにあるのは一人ひとりとの具体的な関係の積み重ね。

カプカプのメンバーと一緒に過ごすことが、いつしか励滋さんにとって当たり前の日常となっていった。だがそれは、地域の大多数の人にとっては「当たり前」でもなんでもなかった。ある日、そんな現実に気付かされることになる。

みんなで一緒にバスに乗って移動していたときのことです。周りの乗客の彼らに対する視線が、これがまぁ…なかなかすごい。ああ、なんか存在として軽んじられてるなっていう感じの冷たい視線。一緒にいるだけの僕が感じとるぐらいなんだから、本人たちはこれまでどれだけの視線を受けて嫌な思いをしてきたのだろうと、その時ようやく気付かされました。

それで、最初は僕も怒ってたんですが、自分もそんな世の中を作っている一員なんですよね。僕自身がこの社会でマジョリティとしてすごく色々なものを得てしまっていて、なんだかわからないけど、この仕事で一定のお金がもらえている。メンバーさんより大きな額をです。

でも、世の中を変えようと既存のヒエラルキーをいくら言葉で否定したって、その中で生きる人の価値観そのものが変わらないと、カプカプのみんなに向けられる眼差しは何も変わらない。じゃあ、どうするか。

僕たちはせっかくこの地域にお店を出しているんだから、まずここで何ができるのかということを考えました。身近な地域の人たちといい関係を築けなくて、一足飛びに大きいことはできませんから。

「世間の差別的な眼差し」とひと括りにして怒ることはたやすいけれど、その世間を構成しているのは一人ひとりの人間だ。励滋さん自身が経験したように、この地域の一人ひとりが、カプカプを通して障害のある人たちと出会いかかわることで「当たり前」を塗り替えていくことができるかもしれない。

以来、約20年間カプカプの運営に携わってきた励滋さん。冒頭で紹介したように、今では同じ地域に過ごす人が思い思いに過ごし、メンバーさんたちと関わり合う居場所となっている。

そうなるとますます気になってくるのが、ここに至るまでのプロセスだ。ごちゃごちゃしているのになんだか落ち着く。カプカプのこの独特な空気感を、いったいどうやってつくってきたのだろう。

いやぁ、僕も最初は、ここを小洒落たカフェにしたかったんですよ(笑)。セレクトショップみたいにオシャレな雑貨も並べてね。お金がないからそこまで綺麗に出来なかったんだけども、そういうのを目指してた時期もあったんです。

今のカプカプを見ると想像もつかないが、いわゆる「オシャレカフェ」路線を目指していた時期もあったという。既存の福祉施設で作られているものや、販売されているものは品質もデザインもまちまちで、正直「“残念”だなぁ」と思うものも少なくなかったため、そういうものとは違う空間をつくりたかったとのこと。

ところが、実際に「店長こだわりのセレクト」路線で内装・陳列を試みてみると、その行為の矛盾に気づいてしまう。

路線を決めて、それに合う物を揃えようとすると、ここに置く物をなんでも「選別」することになってしまうんですね。地域のおばちゃんとか、カプカプのメンバーがどこかで見つけて持ってきてくれた物を置けない店になってしまう。

そうやって選別することに対して「あれ?これってどうなんだろうと」と自分の中で違和感が湧いてくるわけですね。せっかくメンバーが物作りをしているお店なのに、それを置けない店なんかやっている意味ないだろう、と。

そう考えた励滋さん、「選別」することを手放し、カプカプのメンバーや地域の方々が持ち込んでくれた物をどんどん置いていくことにした。中には、どう扱ったらいいかわからない変な物もある。最初のうちはそれらが浮いてしまうのだが、だんだんと変な物たちの数が上回ってきて、最終的になんでもありの空間になってきたという。

みんな、どこかに出かけた先とか、近隣の施設とかで買ったりもらったりしたものを持ち込んできてどんどん増殖していくんです。一個一個を見ると「これ何に使うんだ」みたいな“残念”な物もありますけど、増えていくと“残念”を通り越してよくわかんない変な境地に達しますね。

「どうすんだこれ」っていう突き抜けて変なものがきたときが面白くて、もう何でも来いみたいな。だから、最初からごちゃごちゃだったわけではなくて、あれこれやっていたら結果的にごちゃごちゃになっていったっていう感じですね。

「格好いい店」を維持することと、持ってきてくれた「この人の気持ち」を比べると、明らかにその人の気持ちの方が大事だよなって。そういう一人ひとりの気持ちを大事に受け止められる空間ってどうしたら成立するようになるんだろう、って考えながらやってきた結果がこれですね。

美の基準を設け、そこに合うかどうかの選別をしながらつくっていく空間と、多様な人の気持ちや、それが込められた物たちをひとつひとつを大事に受け取めながら立ち上がっていく空間。カプカプのメンバーと、この地域で暮らす人たちが居心地の良い居場所をと願うなら、後者の方向へ進むのは自然な流れだったのかもしれない。

そんな背景を聞いた上で改めて店内を眺めてみると、喫茶店らしからぬカプカプのユニークな機能にも自然と合点がいく。たとえば、コンビニと同じ価格で、事務所の複合機を使ってコピーやFAXをしてくれるサービス。

【写真】店内あるコピー機。そばには、「コピーできます!」と説明のチラシが貼ってある。

この団地にはコンビニがなかったので、お年寄りの住民たちはわざわざコピーやFAXのためだけに、バスで出かけてコンビニまで行かなければならなかったんです。

遠いだけでなくて、お年寄りの方は最近の複合機の使い方がわからなかったり、役所の申請書類を準備するのが難しかったりという困りごともありました。お店に来たおばあさんとのやり取りでそのことを知って、「そんなに苦労してコンビニ行くぐらいなら、うちにあるのを使ってくださいよ」と、コピーやFAXのサービスを始めたんです。

頼まれたら私がやるんですけど、もう私の仕事のかなりの割合がコピーですね。でも、どこの福祉事業所も複合機は一台ぐらいあるわけで、それを開放するだけで地域の人達と接点ができるわけですよ。

同じように、このあたりは公衆トイレもなくて、団地にエレベーターのない棟もまだあるので自分の部屋に戻るのも一苦労だし、じゃあうちのトイレ使ってくださいよってことで自由に使ってもらっています。隣のそば屋のトイレが和式だからって、そば屋の客がこっちにトイレ借りに来たりもしてますよ(笑)。

他にも面白い特徴が。カプカプではお客さんにスタンプカードを発行している。使用期限なし、喫茶利用100円につきスタンプひとつ、30個たまると300円分の喫茶チケットとして使えるというものだ。カードにはカプカプメンバーの手描きイラストが描かれている。

「自分で持っていてもすぐ失くしてしまう」というお客さんの声を受けて、飲み屋のボトルキープのように、カードに名前を書いてレジに吊るしておくようにした。すると、レジでカードにスタンプを押す際にお互いが名前で呼び合うことになり、お客さん、メンバー、スタッフがお互いのことを知る機会になる。次第に、「あのおじいちゃんは一人暮らしで」といった背景情報も蓄積されていき、一人ひとりに対する声のかけ方、心配の仕方も変わっていったそうだ。

【写真】レジの近くに置いてある常連さん用のスタンプカード。

「障害者」「お年寄り」っていう一般名詞じゃなくて、固有の名前を持った人として出会うきっかけがそこで生まれているんですね。

こういうのも別にハウツーでやっているわけじゃなくて、なにか言われたらその都度考えて工夫してやっているだけです。でもそういうことの積み重ねで、ここに来てくれる人が増えていくんですね。

マニュアルやハウツーには簡単に落とし込めない、しかしそこには一貫して大事にしている思いがあるという。それは、「歓待」するということ。

カプカプを開かれた場所にしたいという思いから、当初から「障害」や「福祉」といった業界用語は看板に一切出さず、ただ「喫茶カプカプ」とだけ掲げてスタートした。それでもしばらくは、「ここは普通に入っていいの?」と訪れた人たちに聞かれることが多かったという。

「普通に入っていいのか」と聞かれたことを、「障害福祉関係者しか入っちゃいけない」みたいに思われているんだと最初は捉えていました。でも、本当はそうではなくて、僕が作ってしまっていた「選別」している感が、そもそもの敷居の高さになっていたのかもしれないと。

やっぱり、いくら自分たちが開いているつもりでも、こちらから関わりにいかないと本当の意味で歓待はできないんですよね。

置き物一つ一つ、コピーとかスタンプカードにしてもそうだけれど、そういう小さなところから「歓待する」っていうことを表現していかないと伝わらないんだなと思いました。

ただ「オープン」な気持ちで待っていれば、それだけで多様な人が集まる居場所ができるわけではない。相手が何に困っているか、どうなったら嬉しいかを考えながら工夫を凝らし、そして表現をしていく。人がやって来るのを待つのではなく、「ようこそ!」とこちらから迎えに行く。そんな前のめりなかかわり方が、カプカプ流の「歓待」のようだ。

「これしかダメ」じゃなくて「それもOK!」 選択肢をたくさん増やすということ

さて、そんなカプカプでメンバーさんたちはどのように過ごしているのか。

【写真】店内の端っこの椅子で雑誌を楽しそうに読むメンバーさん。

【写真】ソア取材班の似顔絵を描いているメンバーさん。

【写真】キッチンにて、笑顔で、野菜に調理を進めるメンバーさん。

雑誌や新聞を読んだり、似顔絵を描いたり、料理をしたり、喫茶でお客さんと話したり…それぞれにお気に入りの場所、お気に入りの仕事があり、同じ空間を分かち合いながら過ごしている。

自治体から委託された公共物の見回り・点検作業を行ったり、近所のおじいちゃん、おばあちゃんの家を訪ね、不要になったものを受け取ってリサイクルバザーに出品したりと、外に出かけていくこともある。

全員に共通のプログラムがあるわけではない。スタッフの側が仕事を決めてやらせているわけでもない。メンバー一人ひとりが自分で試して選んでいけるように、たくさんの選択肢をつくることを大切にしているのが、カプカプの運営スタイルだ。

一つの仕事を決めて、そこに人を当てはめるかたちで訓練する方が、管理する側としては楽なんだろうし、そういうお店や福祉施設は世の中に多くあります。でも、そのやり方では一人ひとりの面白さ、その人らしさというものは見えてきません。

ここに来る人たちは、あらかじめ「正解」があってそこに合わせるための教育とか、集団から逸脱することに対する周囲からの冷たい評価の目線とか、そういったものにずっと晒されてしんどい思いをしてきた人たちです。そうした「整然さ」の圧力に萎縮してしまっている人たちをどうやってほぐすことができるか、ということを考えているんですね。

僕たちの役割は選択肢を増やすこと。「これしかダメ」じゃなくて「それもOKだよ」というものをたくさん用意して、そこからみんなが色々選べる場所でありたい。

【写真】カメラに向かってピースをしているメンバーさんたち。とてもいきいきとしている。

フロアに置かれている机や椅子は、高さも大きさも、形も素材も不揃いだ。なんとなく、メンバー一人ひとりの「定位置」があるようで、そこに新聞やらラジオやら、絵を描く道具やらが広げられている。自分だけのお城、あるいは秘密基地のようだ。リラックスした表情でこちらのカメラに「ピース」を向けてくれる様子は、なんだかとっても収まりが良い。

分室の工房に色んな机があるのは、バザーとかいろんな機会で地域の人からいただいてきたものなんですよ。

「机もらったけど、みなさんどうですか」って呼びかけると、「ほしい!」っていう人が出てくる。それを繰り返していくうちに、みんなが思い思いの場所に机を設置して定位置ができていきました。

あっちでパソコンいじったり、こっちで絵を描いたり、新しい人が入ってきても、その人がまた空間の隙間を探して居場所にしたり…気づいたら居場所がうまく分散しているんですね。

障害のある人たちが過ごす福祉施設では、活動の目的や利用者の特性に合わせてエリアを区分けしたりレイアウトを変えたりする、「構造化」という支援ノウハウが一つの定石となっている。しかしカプカプの空間づかいは、少しそれとは異なるように思う。

支援するスタッフの側が最初から狙いを持って環境を整えるのではなく、メンバーとスタッフ、あるいはメンバー同士のかかわり合いの中でじわじわと変化し、形づくられてきた場所だという印象を受ける。

仕事を分けるとか、事業所で過ごす空間を分けるっていうことを、単に「AさんとBさんは相性が悪いから分けよう」という考えでやると、人と人が繋がる可能性がゼロになってしまいます。そういう方法は取りたくないなと。

お互いがまだ警戒していて喧嘩が起こるような状況で、ずっと同じ空間を使い続けていたら関係修復できなくなっちゃうので、一時的に少し離す、ということはあります。

そういう意味では、メンバー同士のことを考えて住み分けをしている面もありますが、現実はそれほど単純には決まらない。いろんな出来事の積み重ねで、そこにいる人同士の関係性って変わっていくんですよ。

人と人がつながる可能性は消さないで、いろんな仕掛けを重ねていく。するといつの間にか、メンバーさん同士の関係もほぐれていったりします。

売り出したいのは、作品ではなく「ひと」の面白さ

福祉施設では、利用者がつくったものを商品化し、一般に向けて販売や展示をすることが少なくない。

パンやクッキーといった食べ物、利用者が描いた絵や文字を印刷したポストカードや缶バッジ、Tシャツといったグッズは比較的多く見られる。家具や食器などの木工製品をつくる設備が揃っているところもあれば、絵画や縫い物といった作品をつくるアトリエがあるところもある。

カプカプもその例に漏れず、メンバーさんがつくったものを販売している。

【写真】メンバーさんがデザインしてつくった缶バッチ。ふくろうに模したオリジナルキャラクターが描かれている。

ここでひとつ気になったことがある。「ものを売る」ということと、カプカプはどう付き合っているのだろう。

メンバーさんが作ったものが世に出て売られるときには、当然「値段」がつく。材料原価や制作工数、ビジュアルやデザイン、アートとしての価値etc.いろんな要素が合わさりながらも、貨幣というひとつのものさしの中で、その価値の大小がひとまず決められる。つくったメンバーさんや福祉施設側の思い入れと、値段や売れ行きが必ずしも比例するとは限らない。

「なんでもあり」の雑然なカプカプでつくられたものが、整然とした貨幣のものさしに翻弄されてしまいはしないか。そんなことを考えた。

が、ここでもカプカプのありようは軽やかだった。そもそも「ものを売る」ことを目的としていないのだと、励滋さんは語る。

カプカプメンバーがつくったものはグッズとして売り出すこともありますが、僕たちは別に作品を売ることを目的としているわけではないんです。僕らが売り出したいのはむしろ、彼らという「ひと」の面白さ。

グッズや映像は、その人を知ってもらうきっかけにはなるけど、やっぱり一部でしかないので、この人たちのすごさ、面白さを知ってもらうには、日常の場に遊びにきてかかわってもらうのが一番だと思っています。

【写真】店内で、お客さん、メンバーさんの垣根をこえて自由に談話するみなさん。

目的はあくまで、カプカプにいる一人ひとりの「ひと」の面白さを伝えていくこと、そして地域の人たちとカプカプメンバーとの接点をつくること。物販は、そのために活用できる手段のひとつに過ぎない。作品がいくつ売れたか、売上がいくらあがったかではなく、「これをつくったのはどんな人だろう?」という興味関心から、どれだけ多くの人がカプカプを訪ねてくれたかが大事なのだ。

同じく物販という点では、喫茶の軒先でリサイクルバザーも行っているが、これも、「ものを売る」という出口よりも、その過程での地域の人たちとのかかわりを大切にしているようだ。

リサイクルバザーは、地域のおじいちゃん・おばあちゃんから「家にたくさん要らない物があるけど、自分では持ってこられない」と言われたのがきっかけです。外に出るのが好きなメンバーが手を挙げてくれるので、一緒に車で出かけてもらいに行きます。

すると、荷物を受取るついでに「上がってお茶でもどうぞ」と、しばらく世間話をすることになり、地域の人とメンバーの関係が生まれるんです。そこからさらに人づてにカプカプのことが知られていき、お店に来て常連になってくれる人が出てきます。

メンバーと地域の人たちが関わるきっかけをいかに増やすか、そのための方法を日々考えて試している感じです。こっちがいろんな方法を用意できていると、一つの方法でしっくりこない人も他の可能性を探ることができるので。

アーティストの方々とワークショップを行うこともある。絵本画家のミロコマチコさんと一緒に絵を描いたり、体奏家/ダンサーの新井英夫さんと身体を動かしたり(カプカプ音頭という踊りが出来上がったそうだ)、文化活動家のアサダワタルさんと一緒にカプカプ店内限定のラジオをやってみたり…。これらはいずれも、単発の企画ではなく、長年にわたって定期的・継続的に開催している。

助成金の公募プログラムで、アーティストと福祉施設をつなぐ試みはよくありますけれど、だいたいが単年度で、関係づくりの時間も十分に持てないまま成果物や報告書を求められるものが多いですね。受け入れる福祉施設としても、企画を提案するアーティストとしても大変だろうなって思います。

うちがやっているワークショップの一つ一つは、必ずしも全てが目に見える「成果物」を生み出すわけではないけれど、それが日常の一部となっているのが特徴です。

ミロコさんの絵画ワークショップも、新井さんの身体ワークショップも、アサダさんのラジオワークショップも、メンバーさんにとっては日常の中の選択肢の一つ。なるべく多く参加してほしいのでみんなに声はかけますが、強制参加ではなく、どれに参加するかはメンバーの自由です。

ワークショップもあくまで選択肢のひとつ。複数あるので、自分に合った表現方法に出合いやすい。個人的にユニークだなと感じたのは、アサダワタルさんのラジオワークショップ。「ラジオ」と言いつつ一般配信はしておらず、カプカプの喫茶店内にいる人だけが聞ける店内限定ラジオである。

アサダさんが店内にラジオブースを設け、メンバーの生い立ちや好きな曲、趣味などを聞いていき、それがみんなに丸聞こえで店内に流される。絵を描いたり身体を動かしたりするのは苦手だけれど、おしゃべりするのは大好きでずーっと続けられるというメンバーさんも少なくなく、「カツラ愛好会」や「ジャニーズ研究会」など、自分たちで結成した趣味のグループについて紹介しながら盛り上がるのだという。

こういう取り組みは、売り物のような成果物がなくても、日頃からお互いのことを面白がる素地づくりという意味ではとても重要だと思います。

ワークショップに参加するメンバーさん同士の関係も良くなるだけでなく、お客さんたちにメンバーのことをより知ってもらえるチャンスにもなるんです。ラジオを聞きながら、「へええ、そんなことがあったんだ」と。更にそこから「私たちの時代はね…」と話が広がっていったりして…。

メンバーのことを知ってほしいなというときに、スタッフの僕らがおしゃべりして紹介することもできるけど、ラジオという媒体なら、本人の生の語りをまとまった情報として聞いてもらえる。こういう機会はなかなかないですね。

話を聞いていると、カプカプの日常のあらゆる場面に、メンバーさんの自己表現の機会や、メンバーさんと地域の人々の接点が散りばめられているように感じる。

カプカプは、ここのメンバーが存分に表現する場であると同時に、その表現が地域の人に届かないとしょうがないと思っているんです。

「自分らしさを大事にする」「当事者の自己選択を尊重する」「多様な人が交わる地域をつくる」福祉施設や地域の事業がそういったスローガンを掲げているのを目にすることは少なくない。

けれど、スローガンとは裏腹に、選択肢がわずかしなくてその中から選ばざるを得ない状況や、多様な人の交わりと言いながら、ただ同じ空間にいるだけで、お互いの人となりを知る機会や接点がほとんどないという場所もある。

カプカプで働く人たちは、理屈やお題目ではなく日常の実践として、一人ひとりの「ひと」としての面白さ、奥深さと向き合っている。

メンバー一人一人にある面白さっていうのを、「引き出してくれ」とか「伸ばしてくれ」っていうことはスタッフには絶対言わないです。引き出すとか伸ばすとか、よくよく考えると何様だよって感じの言葉ですよね。

僕たちが大事にしているのは、彼らと一緒に面白がること。一人ひとりにある面白さに気づき、その面白さを邪魔しないことです。

たとえば、絵のワークショップでも、「花は黄色で塗るんだよ」みたいに余計なことを言って邪魔をしないで、その人がやったことに対して「その手があったか!」と一緒に面白がること。そういった「面白さに気づく」「面白がる」ための努力はやっぱり必要です。

どうしたらいいかというと、「とにかくアホみたいに相手のことを見る」ことに尽きますね。ある一定の時期は、とりあえずたくさん見るしかない。たくさん見ていると、何か「これはただ事じゃないぞ」というメンバーさんの面白さがだんだん見えてきます。

それから、余計な口出しはしないけれども、かといって、ほったらかしではないというのもポイントです。最初からほったらかしだと、その人は今までの人生で知っている選択肢の中でしかモノを選べないですから。「これはどう?」「あれもどう?」みたいなちょっかいは絶えず出していく、こちらからたくさんの選択肢を提示していくことを大事にしています。

【写真】店内で、来たお客さんにコーヒーを運ぶメンバーさん。お客さんも笑みを浮かべている。

カプカプという場における「選択肢」は、目の前に扉が3つだけあってその中から選びなさい、という類のものではないように思う。そうではなくて、カプカプという小さな球体の惑星があるとしたら、どの面に着地しても良いよ、というようなイメージだ。

メンバーさんは、着地した場所で見つけた素材を使ってそれぞれに表現をする。気に入ったならそのまま定住しても良いし、ちょっとしっくり来ないなと思ったら、別の場所に移動しても良い。移動した先で気の合う仲間に出会えるかもしれない。人が増えて混んできたら、またちょっとずつ移動しながら住むエリアを微調整する。スタッフが新しい素材を持ってきてくれることもある。

そうした日常の営みの中で、僕たち訪問者は彼らの表現と出合い、歓待を受ける。喫茶も、コピー機やトイレの貸し出しも、リサイクルバザーも、ものづくりと物販も、ワークショップも、どれが一番、ではなくて、そのどれもがメンバーさんによる表現のひとつのかたちであり、彼らの人となりに触れる接点のひとつでもあるのだろう。

「普通」を揺さぶり、関係が変容していく。日常が、ほんの少し楽になる

インタビューに応えるすずきれいじさん。

ただ場を開くだけでなく、自分たちから「ようこそ!」と歓待する。限られた選択肢ではなく、いろんな表現方法で、メンバーと地域の人たちの接点を増やしていく。カプカプは、単なる障害のある人たちの「作業スペース」としてではなく、常に外に開いていく「表現の場」として運営されている。それは、何を目指してのことなのだろうか。

僕たちは”相手”をすごく欲しているんです。なぜなら障害というものが、個人が原因ではなくて、人と人の”関係”の問題として起こっているからです。

だから、色んな表現で相手と関わって、関係を揺さぶっていきながら「これもOKだね」という枠を広げていくことが必要なんです。そのためには僕たちだけでなく、相手が絶対に必要です。

障害は、”関係”の問題である。

たとえば、近視・遠視の人が自分に合ったメガネをかければ「見る」ことの障害がなくなるように。たとえば、足が不自由で車椅子に乗っている人が段差を越えるときに、スロープやエレベーター、あるいは周囲の人の助けがあれば「移動する」ことの障害がなくなるように、人ともの、人と人、かかわるお互いの凸凹がうまくかみあえば、障害は障害ではなくなるはずだ。

こうした卑近な事例であれば「当たり前」だと思う人もいるかもしれないが、まだまだ目に見えにくいところで、”関係”の問題から生じる障害に押しつぶされている人が多くいるのが、今の世の中だろう。

多くの人とはちがったものが見える、聞こえる。

考えたり、話したりすることがとてもゆっくりである。

同じことをずーっと続けているのが好きだ。

感じたことを、とても独特な声や動きで表現する。

他の誰でもないその人のユニークさが、学校や企業や公共交通機関で表出しただけで「コミュニケーションが取れない」「みんなと一緒に行動ができない」「精神・知的障害がある」などと噂を立てられ、眉を潜められる。

彼らを「障害者」にしてしまっているのはいったい何なのか。

日本の社会で生きていると、「これが普通」「これが正解」という価値のものさしが強くあって、そこから少しでもずれちゃうとしんどくなってしまうんですね。

ここ以外でも、しんどい思いをしている人たちは世の中にいっぱいいるはずですが、他の価値観を知らないから、上手くいっている人を妬んだりとか、逆により弱そうな人、よりずれている人を攻撃して自分を安心させたりとか、そういう方向に向かっていっちゃう。

根拠があるようでない、たかがひとつの価値のものさしが、”普通”と”異常”を線引きし、障害をつくりだす。

生産性のものさしで測られ、価値がないとされた障害者が殺されてしまう事件が起こりました。僕は、「あぁ、殺させてしまった」という思いです。加害者の行為は全然擁護できない、それ自体「ダメ」としか言いようがないことなんだけれど、でも一方で、彼らにそんなことをさせちゃっているのは僕たちの社会なんですよね。

「これが正解だ」とされてきた単一の価値観に対して、それは数ある価値観の”たかが一つ”にすぎないよね、もっと色々あるよねっていうことを、この場所を通して表現していっているんですけど、まだまだ全然届いていないなって、責任の一端を感じています。だからこそ、さらにザツゼンに、と思っているんです。

「整然さ」を要求する社会から、「普通ではない」と弾かれがちな人たちが集い過ごす、カプカプという場所。確かにここには、僕たちが日常の中で無意識に前提としていた価値観を疑い、”普通”を揺さぶるすごい力があると感じる。

【写真】カメラにポーズを決めるメンバーさん。とてもいきいきとしている。

喫茶、ものづくり、バザー、ワークショップ…カプカプの表現活動を通してメンバーさんと出会い、交わっていく。

はじめての人にとっては、少し驚くこともあるだろう。けれど、この場所の絶妙にゆるゆるで雑然な、「あれも、これもOKだよ」という雰囲気の中であれば、「こうでなくちゃいけない」という思考の強張りもほぐれやすい。カプカプのメンバーさんのことを知るだけでなく、自分自身の新しい一面に気づくこともあるかもしれない。

そうやって少しずつ、”普通”が揺さぶられ、関係が変容していく。そこで得た新しいまなざしは、きっとカプカプを出たあとも僕たちの日常を少しだけ楽にしてくれるに違いない。

【写真】カプカプ の入り口にある木製の看板。手書きで「いらっしゃいませ、またのおこしを」と書いてある。

関連情報
カプカプ ホームページ 

(編集/工藤瑞穂、写真/加藤甫)