【写真】ハローライフの事務所の前で笑顔で立っているしおやまりょうさん

高校の卒業式当日、ぼくは親友だと思っていた人から吐き捨てるようにある言葉をぶつけられました。

おまえって、もう負け犬だよな。

ぼくが通っていた進学校で、大学に進学をしない生徒はぼくだけだったからです。

その後、式を終えて、担任教師からは「きみみたいに大学にも行かない生徒は初めてだよ。恥ずかしい」と言われました。

そうか、ぼくは負け犬で、恥ずかしい人間なのか。周囲の子たちと足並みを揃えることができず、進学をしなかった。それだけで、まるで「落第者」という烙印を押されてしまったかのような感覚。

あまりの衝撃に、ぼくはそれから2年間、外に出ることができませんでした。常に人の目が気になり、社会に馴染むことができなかったのです。

その間も、事情を知らない遠縁の親戚からは、事あるごとに「大学にも行かず、どうしようもない人間だ」と言われ続けました。

そういった「負け犬」「恥ずかしい」「どうしようもない人間」という言葉によって「レッテル」が貼られてしまうのは、とても苦しいことでした。ぼくがなにを考え、なにを大切にし、どう生きていこうとしているのかを一切無視し、「進学しない」「フラフラしている」という外側だけを見て浴びせられた言葉だったからです。

同時に、学歴を重んじる社会から飛び出してしまった自分は、「このまま幸せになれないのかもしれない」とも思うようになっていきました。

でも、本当にそうなのでしょうか。学歴がないことと不幸であることは、直結するのでしょうか。

【写真】緑の木々を背景に立っているしおやまりょうさん

その問いに、ひとつの答えをくれそうな人の存在を知りました。大阪でNPO法人HELLOlifeを立ち上げ、就業支援を通じて、誰もが自分らしく働くことをサポートする塩山諒さんです。

塩山さんの最終学歴は、なんと小学校3年生。実は過去に不登校だった経験を持ち、学歴がないことで苦しんだ時期もあるといいます。

そんな塩山さんに会えば、きっと胸のわだかまりが氷解するのではないか。そう思ったぼくは、塩山さんのもとを訪れることにしました。

【写真】ハローライフの事務所。コンクリートのシンプルな壁だ。

最終学歴「小学校3年生」の塩山さんが立ち上げたHELLOlife

こちらが大阪本町に拠点を構えるHELLOlife。1Fには日本茶スタンドが併設されており、カフェとしての利用が可能です。3Fにはイベントスペースがあり、セミナーやプログラムを開催しています。

【写真】ハローライフの事務所の1Fにあるお茶スタンド。お茶っぱやお茶菓子が置いてある。

そんなHELLOlifeのメイン事業は、就業支援。求職中、転職活動中の人たちの、納得のいく就活をサポートしています。

HELLOlifeの求人記事の一例 (提供画像)

しかも、HELLOlifeは一般的な就業支援の”型”にとらわれません。「住宅付き就職支援プロジェクト MODEL HOUSE」では、求職中の人に住居と就職支援を提供したり、「日本センチュリー交響楽団」とのコラボレーションで展開する「The Work(ザ・ワーク)」では、働くことに悩みを抱える若者と一緒に音楽を作り上げたり…。webの世界を飛び越え、リアルに一人ひとりの人生のドラマ作りをサポートしているのです。

「働くこと」を軸に、人生を見つめる塩山さん。その活動の原点に迫るため、まずは幼少期のことを振り返ってもらうことにしました。

先生からの体罰がきっかけで、不登校になった

――塩山さんは「先生からの体罰」がきっかけで不登校になってしまったんですよね?

塩山さん:そうなんです。ぼくが小学生の頃って、「先生が絶対」っていう風潮があって。しかも通っていた尼崎市の小学校には結構やんちゃな奴もいたので、先生が威厳を保つためにより厳しかった。登校すると、校門の前で竹刀を構えた先生が待ってるっていう。

【写真】真剣な表情でインタビューに応えるしおやまりょうさん

――ぼくも塩山さんと同世代だったので、そういう先生がいた記憶があります…。

塩山さん:だから、殴られるのなんて当たり前なんだけど、でもぼくはケロッとしてたんです。先生って、そういうもんやろうなって。いまでは考えられないですけど、当時は気にしてなかったんです。

ぼくはクラスでも元気な方で、一年中短パンにランニングを着ているような子でした。朝6時半には登校して、誰よりも早く用務員さんの部屋に行って鍵をもらって、教室に入るっていうのがマイルールで。それが7時くらいになると2番手になっちゃうんです。だったら、学校なんか行かへんって思うような負けず嫌いな子だったんですよ(笑)。

――それは相当ですよね(笑)。

塩山さん:そんくらい元気だったんやけど、流石に年がら年中短パンランニングだと、たまに風邪をひくわけです。しかも、もともと平熱が低かったのもあって、37℃を超えるともうフラフラ。それであるとき、母親が「37.5℃もあるので休みます」と連絡を入れたら、先生が「なんでや」と。「いつも元気なくせに、怠けてんのか」と言うんです。

それで翌日登校してみると、「塩山くんを考える会」というのが開かれて、先生に「37.5℃で休むなんてどういうことや」と責められたんですね。

――そこから先生との関係が徐々に悪くなっていったということですか?

塩山さん:それを機に目をつけられて、なにかと「塩山くん、放課後残ってくれる?」と。あまり言いたくないような、ひどいこともされたんです。

それでも最初のうちは「先生は絶対やしな」ってケロッとしていたんですけど、それが続いて、3学期の頃に爆発しました。朝起きると、40℃近い熱が出てる。でも、学校を休むと自然と下がる。精神的なものですよね。それが何カ月も続いて、不登校になってしまった。

でも、当時は学校に通うのが当たり前のことやったから、休みが続くと先生が家に来るんです。で、無理矢理担ぎ上げられて、連れて行かれる。ほぼ毎日そうやって連行される時期もありましたよ。

ただ、そうなるとぼくも暴れて抵抗するじゃないですか。すると、先生から「このまま頑張れば、一流大学まで進学するコースがある。でも、きみはこのままだと、裏のエリートコースに行くことになるよ」って言われたんです。

【写真】当時のことを思い出しながら、辛そうな表情をするしおやまりょうさん

――裏のエリートコース…?

塩山さん:要するに、“社会不適合者”になるってことでしょうね。先生が自宅までやって来て、「このまま引きこもっていたら、ホームレスになって死ぬだけやで!」って言いながら、ぼくを学校まで連行することもありました。

――それはあまりにも極論ですよね。

塩山さん:いまならそう思えますけど、当時は絶望しました。社会のことをよく知りもしない小学生ながらに、レールから外れてしまうことがすごく怖かったんです。真っ暗闇でしたね。

そのうち、「せっかく育ててもらったのに、生きている価値がない」「先生が言ってたみたいにホームレスになるんだったら、生きている意味がない」と発狂しだして。暴れまわって、家の窓ガラスや壁をぶち破るような状況でした。止めに入る母親もすごく大変だったと思うし、祖母もパニックになって泣いているし…。

――「死んでしまいたい」という気持ちでいっぱいだったんですか?

塩山さん:そうです。「はよ死ぬ、はよ死ぬ」って叫んでいました。自分が生きていること自体に罪悪感があって、とにかく死にたかった。生きる価値も見いだせないし、恥ずかしくて、ご近所さんとか親戚にも顔が見せられなかったんです。

いまよりも世間体を意識する時代だったから、なおさら。どんどん深刻化していって、毎日のように包丁を振り回して、泣き叫んで、「死ぬ死ぬ」って言ってました。近所のおばちゃんからも、「諒ちゃん、おかしなってるで!」って騒がれて。それが10歳くらいの頃の記憶。ぼくにとって、生き地獄だった時代ですね。

芸人・わきたかしさんとの出会いで、視界がひらけた

――お話を聞いているだけで胸が苦しくなるんですけど、でも、塩山さんはいまこうして立ち直って活躍されているじゃないですか。そんな暗黒の時代を抜け出すには相当な苦労が伴うと思うんですが、なにかきっかけはあったんですか?

塩山さん:極限まで追い詰められていたときに、尼崎市の「ハートフルフレンド」という制度に登録している家庭教師のお兄さんが遊びに来てくれたんです。不登校児がいる家庭にお兄さん、お姉さんが派遣されてくるっていうものなんですよね。

そこでぼくのもとに来てくれたのが、駆け出し芸人のわきたかしさんやったんです。たしか当時は、深夜番組にレギュラーで出てらしたかな?

――芸人さんが遊びに来てくれるなんて、とてもうれしいことなんじゃないですか?

塩山さん:あんまりうれしくはなかったかな…。その頃は本当に疲弊していて、家のなかも荒れていたから、誰にも入ってきてほしくなかったんです。それなのに、わきさんが「わきくさくないよ、わきたかしだよ~」って入ってくるんですよ。しかも、カバンには「わきたかし参上」って書いてあるし、ときには全身に「わきたかし」っていうステッカーが貼ってあったりして。

【写真】微笑みながらインタビューに応えるしおやまりょうさん

――その光景を想像するだけでも面白いですね(笑)。

塩山さん:いまとなってみればね(笑)。でも、ぼくは将来に絶望していましたし、まったく面白くなくて。「わきくさくないよ、わきたかしだよ~」って言われても、全然笑えへんかった。

――それは…、わきさんもつらい。

塩山さん:それでも、わきさんは1時間くらいギャグを披露して、帰っていくんです。で、また1週間くらい経つと現れる。ガラガラガラってドアが開くと、「わきくさくないよ、わきたかしだよ~」って入ってくるんです。それが半年くらい続くと、だんだん笑えるようになってくるんですよ。

――そこから徐々に心を開いていったんですね。

塩山さん:そう。ぼくが反応を示すようになると、今度はいろんなテレビ番組の現場にも連れ出してくれるようになったんです。ロケ番組の撮影現場に行くと、お弁当が出てきて、それをプロデューサーさんやディレクターさん、カメラマンさんにまじりながら一緒に食べるっていう。

そこで、「きみ、学校に行ってへんの?」とか聞かれるんですけど、「ま、なんとかなるんちゃうか」って、みんな温かく受け入れてくれるんです。わきさんと過ごす時間は、ぼくにとって非常に大きなものでした。

自分はこのまま行くと、最終学歴が小卒になってしまう。でも、わきさんを見ていると、わきさんみたいな生き方でも生きていけるんやなって思ったんです(笑)。

――ある意味、大学まで進学して一流企業に入るという規範から外れた、ロールモデルみたいな存在だったんですか?

塩山さん:そうかもしれない。それまではきちんと学校を卒業して、ええとこに行かなあかんっていう強迫観念が強かったんですけど、そういう生き方を選ばなかった芸人さんを見て、なんとかやっていけるんちゃうかって思えるようになったんです。

そして、夢もできました。たとえ学歴がなかったとしても、なんでもいいから仕事して、週末にはわきさんみたいに不登校の子たちに会いに行って、今度は自分がハートフルフレンド側に入っていくぞって。将来、わきさんみたいな大人になりたいって思ったんですよ。……いや、ぼくは芸人には向いてへんけどね(笑)。

【写真】笑顔でインタビューに応えるしおやまりょうさん

――その出会いがいまの活動の原体験になっているんですね。

塩山さん:そうだと思います。そのうち、わきさんが売れてきて(笑)。すると今度は消防士のお兄さんが来てくれるようになった。彼もいろんなことを教えてくれて、人生が変わるきっかけになったと思います。

子どもって、大人の背中を見て育つじゃないですか。教科書でいくらポイ捨てしちゃいけませんって説いてもなかなか伝わらないけど、側にいる大人がポイ捨てをしなければそれを見ている子どもだってしない。結局、大人の考えていることや優しさがどんどん伝承されていくと思うんですよ。

それで言うと、ひいおばあちゃんの存在も大きかった。当時、家に98歳のおばあちゃんがいたんですけど、絶対にぼくを否定しない人だったんです。多分、否定したらぼくが暴れだすってわかっていた部分もあると思います。

それでも、いつも「諒ちゃんはええ子や」って、マザーテレサみたいに接してくれて。学校に行っていなくても、引きこもっていても、絶対に全面肯定してくれてた。どれだけ悪いことをしても、「諒ちゃんはええ子や」って言うんです。

【写真】インタビューに応えるしおやまりょうさん

――すごく優しいおばあちゃんですね。

塩山さん:そのひいおばあちゃんの優しさも、伝承されていると思っています。おばあちゃんは死ぬまで一粒もご飯を残さない人でした。戦後の食糧難の時代を経験しているから。どれだけ物質的に豊かになったとしても、「もったいない精神」のある人やったんです。ぼくはその背中を見て育った。

学校で環境問題や食糧問題について教わったとしても響かなかったかもしれへんけど、そんなおばあちゃんを見ていると、自然と「もったいない精神」が身につきますよね。だから、お米の研ぎ汁を庭の植物にあげたりして。

子どもって、そういう生きる上での方向性や考え方、指針となるようなものを、身近な大人たちの背中から五感で感じ取るんです。それによって、将来の道が見えてくることもある。

――塩山さんにとって、身近な大人たちが人生の教科書だった。

塩山さん:ええ。わきさんや消防士のお兄さん、ひいおばあちゃん、そういう人たちとの出会いによって変わりました。だからこそ、社会を形成していくのは人の人格だとも思うようになって、将来はそういった人の背中を作っていくような仕事がしたいという意識が芽生えたんです。

学歴ナシからスタートした、社会への第一歩

――少しずつ立ち直ることができて、目的も生まれた。いよいよ、社会に踏み出すわけですね。

塩山さん:最初は、中華屋さんのアルバイトからスタートしました。その後、コンビニでもアルバイトをして、派遣の日雇い労働に行き着いたんです。

でも、がむしゃらに頑張っていたら、派遣元の社長さんが評価してくださって、ちょっとずつ昇格していったんです。で、気づけば17歳の頃には、派遣さんの面接を受け持つくらいにまでなっていました。

――それはすごい!

塩山さん:毎日、いろんな方の面接をしていました。そこにはノンキャリアだったり学歴がなかったりする人たちが大勢来るんです。でも、仮に学歴がなくても、ものすごいポテンシャルを秘めている人もいる。それぞれに得手、不得手があって、そこを理解してコーディネートすることができたら、もっと彼らが輝けるかもしれないと思いました。

ただし、会社に所属している以上は、利益を考えなければいけない。例えばIT系の会社に向いている派遣さんがいたとしても、より会社に利益をもたらす建設現場に向かってもらわなければいけない状況もあったりするんです。

そこがとても引っかかってしまって。ぼく自身も不登校からスタートしてきて、頑張っても報われないワーキングプアのような状況を味わってきたんですね。そんないろいろな状況をどうにか変えられへんかな、と。

それで派遣会社も辞めて、その後は工場で働いたんです。夜9時から朝の6時までの夜勤で、業務内容は何万個というキャベツをひたすら刻む、キャベツマスター(笑)。

――面接官からキャベツマスターって、かなり振れ幅ありますね。

塩山さん:でもね、日中は時間ができたので、ボランティアに精を出しましたよ。不登校や引きこもりの子どもたちに会いに行ったり、フリースクールや児童養護施設でサッカーのコーチをしたり。週5日夜勤で働きつつ、日中はボランティアをする。そんな生活を1年間続けたんです。

――まさに、わきさんみたいな。

塩山さん:そう、夢が叶ったって思いました。ただ、それで満足はできへんかった。

【写真】インタビューに真剣な様子で応えるしおやまりょうさん

――どうしてですか…?

塩山さん:フリースクールの子どもたちと触れ合うなかで、不登校の子どもたちを取り巻く現状がなにも変わってへんって気づいたんです。彼らを見る目は、厳しいまま。しかも、当時のフリースクールの月謝ってとても高かったから、そこに通えるのはある程度裕福な家の子どもだけ。

そうじゃない子はフリースクールにも通えへんくて、家に引きこもるしかない。でも、それだとますます世間から厳しい目を向けられてしまう。

そこで、不登校児の親が集まる会に参加して、そこのお母さんたちと一緒に署名活動をやったんです。貧困でも不登校でも、きちんと教育を受けられるような機会を作りたくって。それが19歳の頃やったかな。集めた署名は、政治家の方にお渡しもしました。

――社会を変えるために積極的に動き出したんですね。

塩山さん:そこで理解したのは、「動かす側」にならなければいけないってこと。政治家の方にお願いをするだけではなく、自らが動いていかなければ、社会は変えられへんって思ったんです。でも、ぼくが持っていた問題意識に働きかけている会社がどこにあるかもわからなかった。だったら、もう自分で起業するしかないよな、と。それでHELLOlifeを立ち上げたのが22歳の頃です。

働くことはただの手段。目的は幸せに生きること

――塩山さんの体験を聞いていると、なぜHELLOlifeを立ち上げたのかが納得できました。学校に行けなかったこと、学歴やキャリアがないことで苦労している人たちを見てきたこと、いまだに不登校児を取り巻く状況が変わっていないこと、それらすべてがつながっているんですね。でも、根底にあるのは、どうやっていまの社会と接続するのか、つまり「どう働くのか」ということなのかなと思いました。

塩山さん:そもそも、「働く」って、「はた(傍)」を「らく(楽)」にする、ってのが語源らしいんです。身近な人たちを喜ばせたり楽にしてあげたりするってこと。でも、そこでお金について無頓着になれるかというと話は別で。ライスワークとライフワークのバランスが大事だと思うんです。

ぼくの両親はともに絵描きやったんですけど、ふたりはクリエイティブによって「はた」を「らく」にする人たちでした。描いた絵を見て喜んでくれる人がいたり、毎年、手作りの年賀状を心待ちにしている人がいたり。

それで食えているか食えていないかというと微妙なラインでした。ただ、それでも幸せであることは確かやったんですよ。そこで思うのは、「どう働くのか」というのは、あくまでも手段でしかなくて、目的はその先にある「生きる」ことなのかなって。

働くことが自分の人生にどのような影響を及ぼしていくのか。それを踏まえると、働くことというのは、この時代をどんな風に歩んでいくのかを決めるモノサシなのかなと思います。

【写真】インタビューに真剣に応えるしおやまりょうさんとライターのいがらしだいさん、ソアー編集部のさとうみちたけ

――働くことはあくまでも手段でしかない。最終的なゴールはどう幸せに生きるのか。そう考えると、仮に学歴がなくて職業の選択肢が少なかったとしても、それが不幸には直結しないということですよね。

塩山さん:そういうことです。結局、幸せに生きることと学歴の有無は関係ない。ぼくの両親も学歴はなかったけど、幸せそうでした。

ぼくが工場でキャベツを刻んでいたとき、そこに30代なかばの工場長がいたんです。彼はふたりのお子さんがいて、でも月収はあまり多くなかったのでパートナーと共働きをしながら育てている生活で。でも、とても幸せそうやったんです。まぁ、キャベツの切りすぎでキャベツはもう切りたくないとは冗談まじりに言ってましたけど(笑)。

ただ、彼にとっては子どもが一番だったんですよ。子どもの笑顔を見るのが楽しいから、働ける。そのためなら頑張れる。だから、どんな職業に就いたとしても、幸せにはなれるんやってことですよね。

【写真】微笑んでインタビューに応えるしおやまりょうさん

――それを聞くと、確かにどんな状況にいたとしても捉え方次第で幸せになれるのかなと思います。ただ、現代社会では、まだ学歴が重んじられている気もしていて。「学歴がないと幸せになれない」という思い込みがあるのではないかな、と。

塩山さん:その思い込みは、経済的な指標を基準にしているからでしょうね。学歴がないと選べる道が狭まり、所得が低くなってしまう。すると、周りからも惨めに見えてしまうかもしれない。バカにされたり差別されたりする。そうなったときに、幸せから程遠くなってしまうのかなって思い込んでしまう。

――その思い込みって、社会が学歴がない人や貧困層への見方を変えるだけでなくなりませんか?

塩山さん:そうですね。社会の構造に問題があるんやと思います。競争原理が働いていて、学歴がない=負けた人というレッテルにつながってしまうというか。それはもはや文化とも言えるかもしれへん。多分、みんな無意識にそうなってしまっているんやな、と。

人にはそれぞれの役割があり、輝ける場所も人それぞれ違うということを、認識していくべきだと思います。いい教育を受けていい会社に入れたことを評価する、そういう見方ってすごく視野が狭いしかっこ悪いですよね。

社会は、全員で成り立っているんだ、と。サッカーだって、11人いてはじめてチームが成立するわけやないですか。それと同じですよね。

そういう認識を社会全体で共有していくためには、それこそ大人が背中を見せていく必要があると思います。世論全体を動かしたり、新しい価値観や文化を生み出したり、なんらかの制度化をしたりしないと。そのうねりが勝ち負けではない社会を作り上げていくって思うんです。

【写真】真剣な表情で遠くを見つめるしおやまりょうさん

――「人にはそれぞれ役割がある」という認識が社会全体に広がれば、個人をよりフラットに見ることができそうですね。そうなれば、学歴の有無だけじゃなく、歌がうまい、絵が描けるといった別の評価軸が生まれそう。そんな社会になれば、学歴がない子たち自身もコンプレックスから解き放たれる気がします。「俺、中卒だけど、絵がすごい描けるんだよね」みたいな。

塩山さん:そう。それに逆の先入観もあると思っていて。高学歴の人をやたらと特別視してしまうような。ぼくなんかは、東大出身って聞くと、なんだかすごい人なんじゃないかって思ってしまうところもあるんやけど、それが本人にとっては逆コンプレックスになっているケースもありますよね。だから、人にはいろんな面があるんだってことを、常に念頭に置いていかないといけない。

――ひとつの側面だけで判断しない、という考え方は、ダイバーシティにもつながりますよね。でも、それは理解していても、やっぱり難しい…。

塩山さん:その人のなかにある目線や思想って、きっと誰かからの影響によって培われていると思うんです。先ほど話したように、ポイ捨てする大人を見て育った子どもは、同じようにポイ捨てするっていう。

――なるほど。誰の背中を見てきたか、ですね。

塩山さん:だからこそ、新しい社会の規範となるような背中を見せられる人たちが、今後どれくらい増えていくのかがポイントでしょうね。メディアもその背中のひとつ。それがいかに増えていくのかが、きっと大事なんやと思います。

学歴なんてしょうもないことで悩まんでええ

――そんな未来を待ちつつ、まさにいま、学歴がないことで悩んでいる子たちになにかメッセージはありますか?

塩山さん:もしも今の自分をバカにしてくる人がいても「そこに、自分の貴重な人生の時間を使わんでええ」ってことかな。バカにしてくる人も、競争社会で苦しいんだと思います。いい学校か、いい大学か、いい会社か、そんな目は気にしなくていいんです。

ただし、そういうネガティブな声も含めて多様性。そういう考えの人がいることも現実だから受け止めなくちゃいけないときもあるんだけど、でも、その人たちに認めてほしいから生きているわけじゃないでしょ?

【写真】緑の木々を背景に笑顔で立っているしおやまりょうさん

――自分はなんのために生きているのかを考えてみる。

塩山さん:そうそう。まずはなんのために生きているのかという原点に立ち返る必要があるんですよ。その人たちにどうこう言われるとか、周りの人たちに認めてほしいとか、それが生きる目的なのか、と。自分にとって、なにが一番の幸せなんやろうって考えてみる。ぼくの両親でいうと、絵を描くことがそれです。

料理することかもしれないし、ゲームをプレイすることかもしれないし、子どもの成長を見守ることかもしれない。目的は人によってさまざま。でも、生きるってそれで良いような気がしていて。

ぼくは「アバウト」っていう言葉が好きなんですけど、みんな、もっと適当に生きた方が良いと思うんです(笑)。

【写真】微笑んで立っているしおやまりょうさん。緑の木々と暖かな太陽の日差しがしおやまりょうさんを照らしている。

――適当で良いんですか(笑)。

塩山さん:うん(笑)。真面目に生きすぎるとしんどくなるじゃないですか。HELLOlifeって、肩のちからを抜いて就活することや、のびやかに仕事に取り組んでラフに人生を生きていくという考え方も大事だと思っているんです。世の中、ちょっと真面目過ぎるがゆえに傷ついている人も多いなと。

社会からの抑圧とか価値観とか、誰かが作ったものに振り回されていたら、時間がもったいないし、しんどいし、パワーも消費するだけですよ。

別に自分が納得するんだったら、ずっとゲームで遊んでたって良いし、住むところがあって働く必要がないんだったらそれでも良いし。両親に楽させるために家事手伝いとして頑張るのだって、「はた」を「らく」にするってことですよ。だから、「こうならなければいけない」という強迫観念は捨てた方が良いと思います。

結局、どこまでいっても自分が「主語」でしかないんで、自分がどうしたいのか。誰かのために生きているのではなく、自分のために生きるんだから。

――自分という主語を大切にするってことですね。

塩山さん:もちろん、そこに至るには自分なりの強さも必要だと思います。

たとえばフリーターとして、自分の好きなときだけ働くっていう人生を選んだとして、恋人から「アルバイトだとちょっと…」と言われたらきっと苦しくなる。

でもね、それだけにとらわれないでほしい。ぼくは「アルバイトでも良いよ」って言ってくれる子を探しても良いと思う。もし出会えなかったら、独身でも良い。「俺の生き方には、まだ時代が追いついていない」くらい思ってもいい。もちろんそれでもその子と付き合いたいんなら、頑張って正社員にならなあかんかもしれんけど(笑)。

人間なので、周りの声に流されたり、価値観に影響を受けたりもする。気にしちゃうし、クヨクヨもする。でも、それが人間ですし。ただ、何周まわったとしても、最終的にはやっぱり自分がどう生きていきたいかだと思います。楽にやった方が良い。

【写真】ハローライフの事務所の前で笑顔で立っているしおやまりょうさん

――自分を大切にして、もっと楽観的に生きた方が良いんですかね?

塩山さん:そう思います。あまり生真面目になって、社会のヒエラルキーや権力に立ち向かっていこうとすると、しんどすぎますよ。だから、「真に受けない」という姿勢も大事かなって。

HELLOlifeの社内でもそういう風土を大切にしていて、とりあえず最近のぼくはおもろいことを考えるか、美味しい店を探すことに専念してるんです。ぼくのリサーチした店のリストは、社内で「塩ログ」って呼ばれていて。そのうち、グルメ本出せへんかなって思ってるですよ(笑)。

――ゆるい雰囲気で、楽しそうですね(笑)。

塩山さん:いや、こういう仕事してたら良いことばっかりじゃないんですよ。大変なことも多い。だからこそ、やっぱり夜は美味しいもの食べてストレス発散したいなってね。案外それが働くモチベーションになったりもするんですよ。

自分の人生は、自分という「主語」で生きる

【写真】笑顔で立っているしおやまりょうさんとライターのいがらしだいさん、ソアー編集部のさとう

自分という主語で生きる。この言葉が、インタビューを終えてもずっと耳に残りました。なぜならば、高校を卒業し、道に迷っていた頃のぼくが、なによりも欲していた言葉だったからです。

あれから15年以上が経ち、書くことで生きられるようになったいまも、当時を思い出すと胸が苦しくなります。学歴を放棄した自分は、やはり落第者だったのだろうか。そのレッテルは、いつまでたっても拭い去れないのだろうか。

そんな考えに囚われてしまうのは、自分を主語にしていなかったから。周囲の人たちの価値観を、幸不幸のモノサシにしてしまっていたからなのです。

でも、塩山さんの言葉を聞いて、あらためて自分の人生を生きていこうと強く思いました。そして、あのときの自分に、いまの自分の「背中」を見せてあげたいとも。

同時に、ひとつ目標が生まれました。それは、塩山さんのように、立派な背中を持つ大人になることです。

ぼくはがむしゃらに働いているわけでもないし、売れっ子のライターでもない。すぐに弱気になるし、怠けてしまう瞬間も多々あります。それでも、いつか、自分らしい人生を歩んでいることに誇りを持てるようになったら。

そんなぼくの背中が、誰かの後押しになるかもしれないのです。

そうなれたとき、ぼくはまた、塩山さんに会いに行こうと思います。

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(写真/松本綾香、編集/徳瑠里香、協力/かんおうかなこ)