
これまで何度か、少年院を訪れたり、彼らの自立や更生について話を聞く機会があった。
私の聞く限り、少年たちの多くは、家庭、学校、友人関係など、さまざまな環境や関係性の中で大きな葛藤や困難を抱えていた。背景や理由は一人ひとり異なり、簡単に言い表せるものではないが、自分の力だけでは人生を選べない状況に追い込まれていることが多いように思う。
そんな彼らの話に触れるうちに、ふと考えるようになった。
もし自分が同じような状況にあったとしたら、どんなふうに行動しただろうか。何を選び、どう生きていただろうか。
私たちは日常のなかで、少年院を出た人と出会い、その経験を聞く機会は多くはない。あるいは、出会っていても、その人が過去を語ってくれることは少ないのかもしれない。
それだけ、「語る」という行為には、大きなエネルギーと覚悟が必要なのだと思う。
そんなときに、新井博文さんの存在を知った。
非行を経験し、16歳で少年院に入院。1年の期間を経て出院した後、社会に出て働きながら、自分の過去と丁寧に向き合い、それを言葉にして発信している。
現在は結婚して妻と子どもとともに暮らしており、国内外の福祉施設に在籍する障害のあるアーティストと共に、新たな文化の創造を目指すブランド「ヘラルボニー」で働いている。
おそらく少年院にいたことや、それに至る行動を公に語ることには、並々ならぬ勇気がいると思う。
もちろん、過去の行為の責任がなくなることはないし、その事実は変わらない。
だからこそ新井さんは、過去を自分の責任としてしっかりと受け止めたうえで、語ることを選んでいるように見える。語ることで、自分の人生を引き受けなおすだけでなく、同じような経験を持つ誰かや、その周囲にいる人たちの力になることを願っているのだろう。
もしそうであるならば、その語りに耳を傾けることは、社会の中で見えにくくされてきた人たちの声を聞くという意味でも、私たちにできる行動のひとつなのではないだろうか。
なぜなら新井さんの過去の行動や選択の背景には、本人の意思だけでなく、関わった人々、そして社会のあり方も影響しているのではないかと思うから。
新井さんの語りを聞いたうえで、私たちは何を受け取り、どのように人と関わり、どのように社会をつくっていくのか。そう考えることそのものが、新井さんの言葉に触れる意味だと私は思っている。
過去と向き合いながら語る人がいる。その声に耳を澄ませることから、この社会の変化が始まっていくかもしれない。
ぜひ、新井さんのこれまでの歩みに触れてほしい。
友達と遊ぶのが大好きだった少年が、いじめにあって
ーー今日はよろしくおねがいします。まず、新井さんはどこの出身ですか?
新井:京都生まれで、小学校1年生に滋賀県の大津市に引っ越しました。23歳で関東に出て、今年で15年になります。

ーーまず、子どものときからお伺いしたいと思います。小さい頃、新井さんはどういう性格だったんですか?
新井:とにかく外で遊ぶのが好き。よく親が言っていたのは「日が暮れるまで家に帰らない」。友達とも楽しく活発にやれてましたね。
でも、小学校四年生のとき、初めていじめにあったんです。それまでずっと仲良く遊んでいたグループの男の子たちが、遊ぶ頻度が減ってきていて。だから、寂しいな、遊びたいなぐらいで思っていたんですね。
でもある日登校したら、年下の子たちがぱーって走ってきたんです。「僕たちもう我慢できない。新井ちゃんはいじめられてるんだよ」って。そのとき一緒に登校してた子が、すごく気まずそうな顔してて。
それで自分の中で点と点がつながって、「あ、無視されてたんだな」って気づいて。暴力とかはなかったけど、友達にはっきり無視されるようになりました。
ーー無視されるとなると、一緒に遊ぶ人がいないっていう。
新井:そう。すごくしんどかったのが2つで、1つは遊ぶ友達がいなくなったこと。
もう1つが、家族は「日が暮れるまで友達と仲良く遊んでいる」っていう博文像があるわけです。だから家族にいじめられていると言えなくて、ずっと1人で外にいるような時間があって。性格的に誰かに頼ることも苦手だったので、すごく辛かったです。
いじめられているということを、自分の中で認めたくない。だから口にするのがいやで、家族にも話しませんでした。
学校でも、家庭でも居場所のなかった日々
ーーいじめを受けていた同級生たちとの関係は、その後どうなったんでしょうか。
新井:5年生になっていじめられていたグループがバラバラになってからは、また友達ができてうまくいってたんですけど、親の勧めでサッカーの強いクラブチームに入ったんですよね。
毎週末サッカー漬けで、正直ついていけなくて辞めたいなって思っていましたが、家族には「辞めるな」っていう雰囲気もあって。
その頃から、家庭の空気が少しずつ変わっていきました。サッカーのことで親同士の意見がぶつかって、会話のトーンも変わっていって、なんとなく今までと違う感じがしてきたんです。
そして6年生でサッカーを辞めたことを境に、本当に音を立てるように家の中が少しずつ崩れていき、最終的には離婚して母が出ていって。あの頃は、家族がばらばらになったのは自分のせいなんじゃないかって思ってました。

ーー離婚した場合、子どもは母親と暮らすことが多いと思うのですが、それをしなかったのは何か理由があったんでしょうか。
新井:僕は姉と妹との3人兄弟で、母は子どもたちを引き取りたいって言っていたんです。まだ妹は小さくて自分では判断できなかったと思うので、母は自分と姉を呼び出して「一緒に家を出よう」って話してくれたんです。でも姉と「父も母も選びたくないよね」って相談して。近所に友達もいるからここを離れたくない、っていう理由で、父といることを選んだんです。
そのときに母に「私の育て方が間違っていたのね」って言われて。そこから親や大人に対する不信感が出てきたと思います。
そこからおばあちゃんとおじいちゃんが家事を手伝いに来てくれてたんですが、家族内で衝突することが多くなりました。兄弟もバラバラになった気がしたし、反抗期もあって父にも不信感が出てきてぶつかるようになり、自分は孤立していく感じで。
その頃、学校でも友達とうまくいかなくて、少し引きこもりがちになってたんです。徐々に頼りにしてた友達とも連絡が取れなくなっちゃって、コミュニティがどんどん切れていくような感じがありました。人と関わるのが好きだったのに、どんどん怖くなった。
この前会った友達に、「6年生の夏くらいから変わったよね」って言われたんです。自分では思ってなかったけど、そう見えてたんだなって。
ーーそして中学に進んで、そこからはどう変化しましたか。
新井:中学校に入っても、なんだか友達関係がうまくいかないんですよ。サッカー部が嫌で辞めてバレー部に入ったけど、そこでも友達のことでうまくいかなくて辞めて。
その当時は漫画を家で読みふけったり、歴史が好きだったので、歴史を調べたりしました。アウトドアだったんですけど、どんどんインドアになっていきましたね。
暴走族に入って、仲間と居場所ができた
ーー小学校高学年からは、学校も家族も居心地がいい場所ではなかったんですね。
新井:そうですね。中学2年の時にクラス替えがあって、クラスの中で友達がいないと感じていたのが僕ともう一人だけだったんですよ。その子と遊ぶようになって、その子のお兄ちゃんが暴走族をしてたので、暴走族にアクセスするようになったんです。
僕には、あの暴走族のコミュニティ自体がすごくかっこよく見えたんですよね。仲もいいし、モテるし、ある意味で周りの人から羨望の目を向けられる存在。
その気持ちがエスカレートして、あのグループに入りたいと思うようになって、徐々にメンバーたちとは仲良くなりました。

ーー親や学校からは何か言われたりしてましたか?
新井:夜は出歩いてたので、もちろんいろいろ言われましたけど、親も前より不干渉になってました。
学校は「来てくれればいい」っていう雰囲気だったんで、学校にはいるけど授業は出ない。
非行をしているグループは盛り上がっていくので、自分のなかで優先順位が高くなっていくし、明らかに成功体験がそっちの方にある。衝突があっても、次の日からまた仲良くしてくれるような人たちだったし、決定的にハブにされることがなかった。自分にはそこしかなかったんです。
ーーそこが一番居心地がいい居場所だったんですね。その後、高校には進学したんですか?
新井:勉強をしてないので「高校は絶対受からない」って言われてたんですけど、まさかの定員割れで行けたんですよ。
当時金髪だったんですけど、「高校では頑張ろう」と思って丸坊主にして行ったんですよね。でも期待とは全然違いました。すぐ停学になって、うまくいかない。で、さらに暴走族にどんどん足を踏み入れていって。
結局、高校は6月で辞めました。それからずっと昼は寝ていて、夜になると暴走族に顔を出して、という毎日でした。
「社会とのつながりを絶たれた」1年間の少年院での生活
ーーそこから少年院に入るまでは、どういう経緯だったのでしょう。
新井:何回か警察に補導をされて、任意調査を受けていたんです。17歳のときに警察官とトラブルがあって緊急逮捕されて、そのまま少年院に行くことになりました。
実は中学3年生のときにも一度、鑑別所に入ってるんですよね。それもあって、今回は2回目の鑑別所。
調査や家庭裁判所の審判があって。1回目の逮捕は保護観察処分でしたけど、2回目だったので、中等少年院に入りました。
鑑別所は、正式には「少年鑑別所」といい、家庭裁判所が少年事件の審判を行う際に、少年を一時的に収容し、資質や環境上問題となる事情などを調査・診断する施設です。
家庭裁判所は、家庭に関する法律問題(家事事件)および、少年法に基づく非行少年に対する審判(少年事件)を専門的に取り扱う裁判所です。少年部では、犯罪を犯した、あるいはそのおそれのある20歳未満の少年を対象に、通常の刑事手続きではなく、健全な育成と人格形成を目的とした保護処分の審判を行います。
少年院は、家庭裁判所から保護処分として送致された少年に対し、矯正教育や社会復帰の支援を行う、法務省が所管する施設です。12歳から20歳未満の少年を対象に、健全な育成と再出発を支えることを目的としています。
ーー少年院に行くと決まった時は、どんな気持ちでしたか?
新井:暴走族の先輩も何人か少年院に入ってたので、「いずれ自分も行くんだろうな」ってちょっと思ってたんですよ。「通り道」のひとつ、みたいな感覚です。
でも、すごく覚悟をしてたわけじゃなくて、そういう未来を想像してた自分はいるけど、「少年院に1年」っていう現実に絶望しました。明確に社会から隔離されるってことですから。

ーーもちろん今までとは全然違う生活になったわけですよね。
新井:まず着いたら服を着替えさせられて丸刈りにしなければならなかったので、“洗礼”のようなものを感じましたね。「あ、こういう生活が始まるんだ」って。
鍵個室に入って、少年院での生活を覚える期間があるんですよ。歩き方や生活のルールとか教えられて、そこでボキボキに心を折られる、みたいな感じがありました。
ーーそういう生活のなかで、少年院を出たあとは、どうやって生きていくかは描けてたんでしょうか。
新井:それがね、描けなかったんですよ。少年院の中は社会じゃないので、出れたとしても自分にとってのコミュニティは暴走族しかなかった。
仕事ができるイメージもなかったし、やりたいことも特になかった。何もかも不安でした。とにかく1日でも1分でも早く出たいけど、出るのは怖くて、強烈な不安で夜も眠れなかった。たぶん「失敗する未来」しか描けなかったんだと思います。暴走族で犯罪をしたいとかじゃなくて、そこしか選べないと思ってました。
少年院を出院。もやもやした日々を、緩やかな人とのつながりが支えてくれた
ーー少年院を出ることに怖さを感じていたけど、その日が来て。実家に帰られたんですね。
新井:はい、18歳で少年院を出て、そこから親戚のつながりで植木屋をしてたんですよ。その後は、地元のやんちゃしてた人たちとつながりがあって、電柱の工事などをする電気屋に勤めたんですけど、めちゃくちゃ居心地よかったんですよね。
ーー同じような属性の方が多かったんですか?
新井:そうですね。みんな自分がやんちゃしてたことも、少年院に入ってたことも知ってくれてたし、大きい会社じゃなかったんで家族みたいな感じだったんですよ。仕事が終わってから毎日遊んだり、すごく楽しかった。そこで結局4年くらい働くのかな。
でも、言い方に迷うんですが、面白い人生を生きたいって考えた時に、先輩を見ると自分のなりたい道ではないなって思うようになったんですよね。
それで、人のつながりで紹介された大きめの会社に正社員で入ったんですが、そこでもうまくいかなかった。仕事も人間関係も全部うまくいかなくて、だんだん「もう俺にはこれしかないのか」「なりたくない人間になるしかないのか」って絶望していったんです。
周囲に「転職したい」と相談しても、「少年院あがりのお前がいい会社に入ったんだから、続けておけ」としか言われなくて。誰も否定はしないけど、自分の苦しさには気づいてもらえなかった。
一方で、暴走族の仲間たちもいたんですけど、そっちはそっちですごく心地よかった。うまくいかへん日々が続くと、正直「もうこっちでもいいんちゃうか」って思ってしまう。心の中で綱引きが続いててすごく、苦しかったです。
でも、その暴走族もいろいろあって解散して、自然とそういう犯罪的な行為から離れられたのはよかったなと思ってます。
ーー仕事を続けてはいるけれど、心が楽になることはない日々だったんですね。
新井:その頃、暴走族時代に仲良かった数人のグループでよく集まって飲んだりしてたんですけど、その中の一人が「俺、大学行くわ」って言ったんですよ。やりたいことを見つけて進んでいく姿を見たときに、「やりたいことが見つからずにもやもやしてる自分」とのあいだに、ものすごく大きな差を感じたんですよね。それが、けっこう絶望的な感覚で……。
転職を「挑戦」と考えて、地元で一番大きいセブンイレブンに行って、置いてあるフリーペーパーを全部取って、全部読んでみました。でも、その中に自分が行けそうな会社は一つもない、って感じたんです。
「高卒以上」とか「経験者優遇」って文字を見ると、自分じゃないなって思ってしまう。こんなに世の中には仕事があるのに、自分がやりたいことは見つからないし、「社会は自分のことを必要としてないんだな」って感覚になっていって。

ーーそれでも、踏みとどまって。
新井:そうですね。そんななかでも、最後の最後でそっちの道に行かへんかったのは、「おもろい人生を生きたい」っていう気持ちが、自分の中にやっぱりあったからやと思うんです。
本の存在も大きくて、知らん世界があることを、本が教えてくれたんですよね。「あっちの生活、ちょっとおもしろそうやな」って思えた。
それに、家族の存在もあって。一回だけ、少年院に面会に来た妹が泣き崩れているのを見て「裏切れないな」って思いました。家族や友人の存在が、どこかで支えてくれてたんですよね。いろんなちっちゃなピースが、緩やかにつながって――。もう本当に崩れそうなくらい脆いものだけど、それが自分を支えてくれてたと思います。
世界を船で一周するピースボートで知った、新しい世界
ーーしんどい日々が続いて、そこから東京に出てくるまではどんなプロセスがあったんでしょうか。
新井:あるとき、本屋で世界中を飛び回って活躍されている高橋歩さんって方の本を手に取ったんです。その本に感化されて、抜け出したい、今とは違う場所に行きたいっていう気持ちがじわじわ湧いてきました。
パソコンで高橋さんのことを調べたら、「ピースボート(世界一周の船旅をはじめ、国際交流の船旅をコーディネートするNGO)」の情報が出てきて、「地球一周の船に乗船しよう」っていう文言に出会いました。ボランティア制度があって、ピースボートのポスター貼りをしたら参加費が割引になる、条件によっては全額免除になると書いてあったんです。「これや!」って思いました。
全部がしんどかったので、「変わりたい、違う世界を見てみたい」って、ほんまに藁にもすがる思いで説明会に申し込んだんです。貯金は160円しかなかったんですけど(笑)、やる気と気合いだけはあった。
当時は23歳で、少年院に入ってた自分みたいな人がいい人生を送っているモデルケースが、なかなか見つからなかったんですよね。
自分は背伸びしたいわけじゃなく、等身大でちょっと楽しく生きたいだけ。でも、自分みたいなやつが、どうやって幸せになれるのかが全然見えなくてしんどかった。
滋賀にしか知り合いがおらんから、東京にも出られへんくて、地元から出る手段もなかった。でも、世界一周の話を見たとき、「こんな道もあるんや」って思えたんです。笑われてもいいから、希望に賭けてみたかった。
ーー自分の人生を変えるきっかけだな、と感じたんですね。
新井:80日で世界一周する航路があったんで、「これしかない」と思って申し込みました。ポスター貼りのボランティアで全額免除を勝ち取って、あとは保険料だけ。父には何も言ってなかったけど、出発の日に京都駅まで車で送ってくれて、保険料まで出してくれたんですよ。最後の最後に、親が背中を押してくれたんやって思いました。
ーーそこから世界一周の旅がはじまって。
新井:船に乗ってからは、本当に衝撃ばかりで、世界の広さに圧倒されました。ベトナムのバイクの量、シンガポールの都会っぷり、サグラダファミリアの壮大さ、ジャマイカの美しい海とレゲエの熱気。自分がずっと狭い世界で生きてきたことに気づかされたし、滋賀県以外でも生きていけるって思えました。
もう一つ大きかったのは、船で出会った人たちです。1000人近くのうち、400人ぐらいが同世代で、夜な夜な話し込んで。自分の過去を話したら「面白いね」とか「すごいね」と受け入れてくれる人がいて。大学生も社会人もいたけど、みんなそれぞれ悩んだり、いろいろ考えていたんですよね。生き方とか、将来とか。
「自分だけが苦しいんじゃない」って思えたことが、すごく救いになりました。人に受け入れられるっていう経験を、もう一度ちゃんとできたこと。それが、これからの自分の“地盤”になったと思います。
「人とのつながり」が自分の決断を後押ししてくれた
ーーその80日間で、旅の終わりの方はどういうことを考えてたんですか?
新井:旅が終わったら、ほんまにどうしようって考えてました。何もないんですよ、仕事もないしやりたいこともない。でもピースボートのスタッフが、ピースボートで働かないかって誘ってくれたんです。
やりがいはあるだろうけど、お給料のことなどで悩んで決断できなくて。
それまでの人生でやりたいことやってたのは、暴走族だけなんですよ。だけど、自分のアンテナがそちらに向いて、「やってみよう」と思って。スーツケース一つで、東京に出てきてピースボートで働き始めた。

悩んでいるところから出られたっていうのは、僕にはあまりにも大きな変化でした。
ーーそこを考えて変化できたっていうこと自体が、すごいことだと思ってて。そこで挑戦できない人もいると思うんですよね。新井さんが挑戦できたのはなぜなんでしょう。
新井:いくつか要因があるんですけど、「人とのつながりの数」がすごく大きかったんじゃないかなと思うんですよ。船で出会った人やピースボートのスタッフに、背中を押してくれる人がいっぱいいたんです。だから、自分だけの決断じゃなかったと思います。
社会人って「自分で決断すること」が求められるじゃないですか。もちろん自分で決断しなきゃいけない、とは思うんですけど、他人の後押しも必要だなと思ってて。人って一人で決断できるほど強いもんじゃない。自分だって弱かったから。
地元の仲良かった友達に相談したときもすっごい反対されたんですけど、最後に「俺、東京行くわ」って言った時に、酔っ払って「そこまで言うなら行ってこい」って言ってくれたんです。「もし失敗したら一緒に働こう」って言ってくれた人たちもいて、本当にたまたま、後押ししてくれる人が多かった。
ーー人とのつながりも大きかったと思いますが、船に乗って新井さん自身の心の変化もあったように感じます。
新井:それまでの自分は「何かしたい」という気持ちがなくて、「仕事しなきゃ」とか「稼がなきゃ」とか、「やらなきゃいけないこと」ベースで考えていた。欲望が欠乏してたんですよ。
でも、ピースボートに乗ってから、「こんなことしてみたいな」「こんな自分になりたいな」っていう気持ちが、少しずつ自分の中に生まれてきた。やりたいこと、やってみたいことが見えてきたことが、自分の中で決断につながったと思うんです。
ーー上京してピースボートで働きはじめて、どんな毎日でしたか。
新井:初めての環境に、戸惑いも多かったです。でも支えてくれるスタッフにも恵まれていて、ほんまに支え合ったなって思います。
最初はコールセンターで働いてましたが、自分は活動のボランティアや乗船したい人たちを支援したかったので、途中で異動しました。いろんな後押しがあって、成功体験を詰めて、波に乗っていった感覚がありましたね。
「自分みたいに悩んでる人はいっぱいいるんだ」とわかって、「みんな自分のように世界を広げてみる経験をしたらいいんじゃないかな」って思ったし、悩んでる人の背中を押せる存在になりたいなと思いました。
ーー一緒に働いている人たちには少年院での経験はお話していたんですか。
新井:スタッフは僕の過去のことをみんな知っていて、面白がってくれてた。だから、自己開示するのは怖かったけど、僕への肯定が背景にあるから話せたし、自分も多分言いたかったんだろうなって思います。まっさらな自分を見てもらえるって感じがあって、「隠さなくていい」ってことがすごく大きかった。
ピースボートには、世界一周中に「スタッフの人生紹介」っていうインタビュー企画があるんですよ。そこである人が「絶対言ったらおもろいよ、大丈夫」って言ってくれて、100人ぐらいの前で「自分はこういう過去があって、今ピースボートで頑張ってます」って話したんです。
そうしたら、すごい拍手をもらって「頑張りや」とか「応援してるわ」って励ましてもらえて。ある親御さんからは「うちの子はちょっと暴力的で困ってたけど、新井ちゃんの話を聞いて、あの子の暴力性じゃなくていいところを見ていこうと思った」って言われました。もしかしたら自分の人生って、人の役に立つんちゃうかな」って思って。
それからは、自分から積極的に話すことはなかったけど、頼まれたら過去を話すようになった。話すことで誰かの役に立てるなら、それでええんちゃうかなって。
何も持ってないと思ってた自分の話でも、誰かにとって励みになる。「頑張ってるな」って言ってもらえることで、自分の人生を否定しなくて済むというか、間違ってなかったのかもしれないって思えるようになった。自分の人生に希望を見出せたし、再接続できた気がします。
人に褒められる、認められることもあったから、「この仕事好きだな」と思うようになりました。
仕事を通じて、社会にいいインパクトを生み出したい
ーーピースボートでは何年働かれてたんですか?
新井:6年働きました。20代のほとんどですね。
ピースボートを退職したあとは、後にパートナーになる妻とカナダのトロントに1年間ワーキングホリデーに行ったんです。帰ってきてまた違う仕事を4年ぐらいして、その後ヘラルボニーに入りました。
ーーヘラルボニーとはどういう出会いだったんですか?
新井:ピースボートの仕事関係で障害のある作家が作品を描くアートの団体に関わることがあって、そのつながりで展示会に行ったんです。
それまでアートには全然興味がなかったんです。でも、初めて障害のあるの人が描いたアートを見て、稲妻が走ったような衝撃でした。
かつての僕は、自分に貼られたレッテルによって、行動が制限されているような感覚の中で生きていました。その経験があったからこそ、同じような思いを抱えている人たちに、「そんな世界ばかりじゃない。やりたいことに踏み出してみよう」と背中を押したくて、仕事を続けてきたんです。
だから、その時も障害のある人たちが、かつての自分のようにレッテルを貼られて生きている現実に、強い憤りを感じたんですね。
それと同時に、まさに自分自身が障害のある人にレッテルを貼っていたことにも気づいて、自分にも憤りを感じました。「障害のある人が描くアートってこんなすごいんだ」と感動して調べたら、ヘラルボニーのサイトが出てきて、面白いことやってる会社があるなと思ったんです。

縁あって知り合いが代表の松田崇弥さん、文登さんとつないでくれて、一度お会いしました。その後もいろいろあって、数年後に2021年からヘラルボニーで働くことになったんです。
ーー今はきっと自分のやりたい仕事ができていると思うのですが、以前とどんな変化を感じていますか?
新井:昔はすごく卑屈で、自分は社会に受け入れられないと思ってた。どうしたらもっと自分は成長できるんだろうと考えたりするけど、矢印が内側に向いてたんですよね。
今は、「どうしたらこの仕事ってもっと面白くできるのかな」「どうすれば仕事で社会にいいインパクトをつくって、子どもたちにいい未来を残せるんだろう」とか、意識が外向きになってきたので、変化はすごく大きいです。相談にのってくれる人もすごく増えたので、いろんな観点から自分の人生を考えるようになりました。

ーーじゃあ「面白く生きることだけは絶対に手放したくない」と思ってたことは叶えられた。
新井:そうですね。でも、周りには「すごく変わったね」って言われるんですけど、本質的には新井博文という人格みたいなところは変わってないんです。
社会のことも大事だけど、友達と笑っていたい、半径何メートルぐらいの人たちと仲良く過ごしたいとか、その日暮らしの楽しさみたいなのが好きだったり。そんなに自分は変わってない気がするんですよね。
過去は変えられないけど、“過去の意味”は変えられる
ーーお仕事の話をここまで聞いてきたんですが、家族や身近な人との関係性についても聞きたいです。まず、少年院に入っていたという過去があると、家族をつくることが難しい側面もあるのではないか、と思います。新井さんはどうだったんでしょうか。
新井:もともと自分は家庭は持ちたくないし、持てないと思ってました。それは自分の家族っていうのがいいものではないから、という先入観も正直あった。要は「家庭っていうのは壊れるものだ」って前提になっちゃってたので、あまりそれはほしくないって。
でも、今の妻が自分のことを全部知った上で、それでも結婚したいってずっと言ってくれたことは大きかったです。自分は何回も嫌だって言ってたけど、彼女とはずっと一緒にいたいなと思っていたので、それなら彼女との人生を精一杯やっていくのが大事だなと考えが変わっていきました。
ちょうどその時期、お世話になった人たちの結婚式に行く機会があって、「家庭を持ってもいいと思うよ」と言われたんです。
それに加えて、昔の担当裁判官から、「君が思ってるように家族っていうのは大変で、人が増えると、2倍3倍に悲しいことも増えていく。でも喜びや人生の実感も2乗3乗に増えていくんだよ」って言われたのが、頭の中にずっとあって。
どこかで自分は、家庭っていうのは壊れるものだし、自分は家族を傷つけたって思っている。それでもやっぱり、家庭に求めてるものもあったんじゃないかな。身近な人たちと幸せに生きたいっていう思いを、ただ隠していたり、抑えたりしていただけだったんじゃないかと思いました。

最終的に妻と結婚したいと思って、向こうの親御さんに「結婚させてください」って挨拶に行きました。そうしたら、ものすごく僕を受け入れてくれたんですよね。
妻には最初、「少年院のことは言わなくていいよ」って言われてました。でも妻と結婚するってことはこの家族と一緒になることでもあると思ったんです。そして妻の家族がすごく温かくて素敵だったから、もしかしたら自分のバックグラウンドを受け入れてくれるんじゃないかなと思えた。
誠実でありたいと思って、「実は少年院に入っていたことがあるんです」と伝えました。すると少し場の空気が改まったような雰囲気になりましたが、きちんと説明をすると、親御さんが「あなたのことが大好きだから、私たちも信頼します」と言ってくれたんです。
ーーそれは素敵な親御さんですね。誰もがそういう方に会えるわけじゃないですもんね。
新井:そうですね。でも、そういう親御さんに出会えた自分が特別に恵まれていた、というわけではないと思っています。もちろんありがたいご縁とは思う一方で、自分が一生懸命ちゃんと生きてきたからこの出会いがあった、と感じる部分はあります。
もちろん誰しもがいい人だけに出会える世の中ではないとわかってはいるんですけど、「自分がちゃんと生きてたら社会は答えてくれた」っていう感覚でした。
ーー偶然の出会いだけではなく、自分が積み重ねてきたことで変えることもできるというか。
新井:どういう環境に生まれるかは変えられないじゃないですか。だけど、そこから他人との関係性は変えられると思うんですよね。もちろん過去の事情は変わらないですよ。でも過去の意味は変えていけると思うんですよ。
ーー身近な人に自分の過去を必ず共有しなければならないとは思いません。けれど、少年院に入っていた過去を周囲に共有しないことで、「何かを隠している」と自分自身が感じてしまう部分もあるように思うのですが、新井さんはそのあたりをどう考えていますか。
新井:前提としては、過去のことは必ず言わなくていいって思っています。僕も言わない時期はやっぱりあったんですよね。でも自分にとって重要な歴史は、周りにとっても重要なことだと思うので、隠しているのはつらかった。「もし過去がバレたらどうなるんだろう」という不安がつきまといながら人と仲良くするのは、難しいと思うので。
その人と本当に深く付き合いたいと思うなら、勇気を出して伝えてみるといいと思います。できれば、今の自分を認めてくれて、受け入れてくれる人と一緒にいることが大切だと思うんです。
そして、一人でもそういう人に出会えたらきっと「人に受け入れられた」という感覚を持てて、いいループに入っていけると思います。
もちろん過去を知ることで距離を置く人も一部いると思う。でも、それも「自分の過去を背負っていく」ことだと思うし、無理に人の気持ちを変えようとは思わない。真面目に生きてさえすれば、ちゃんと人に対して誠実に生きてさえすれば、その貯金みたいなものが過去の意味を変えてくれると思います。
一本の太い幹より、たくさんの細い糸をつくるように、人との関わりを生み出す
ーー過去は変えられなくても、過去の意味は変えられる、という話を聞いてきましたが、今の視点で改めて見直したときに、過去の自分をどう思っていますか?
新井:昔は、怒りに向き合うのが下手だったなと思います。今でも怒りという感情は苦手で、人と衝突すると感情的になりすぎないように気をつけて、伝え方の工夫をしています。
でも子ども時代は、自分として言いたいことや怒りがあっても言葉にできなくて、感情を表明したり、人とコミュニケーションする方法がなかったんだと思うんです。それを短い言葉で、たとえば「死ね」とか「殺すぞ」みたいな言葉で表したり、暴力で表したりする。
ーー悪いことをしようと思ってしていたわけではなく、感情の表現や伝え方がうまくいかず、それが行為に出てしまった。
新井:犯罪行為それ自体が怒りの表明というより、そこに至るまでの周りとの不和みたいなものが行為に影響するのではないかと思います。人にうまく伝えられない、わかってもらえないっていう思いが積み重なり、どうしていいかわからず、行き先も見つからないとき、その受け皿として暴走族などの集団に入った部分もあったと思います。
ただ、一度そうした集団に所属すると、「そういうタイプの人」というレッテルを貼るような見られ方をされることが多い。行動や背景の一部だけで全体を判断されてしまい、根本的な部分に目を向けてもらえないことがあります。それをもとにしたコミュニケーションが、さらに自分を追い詰めることにつながっていた気がします。
だから、自分も誰かのした行為を、その人の人格だと即座に捉えないっていうことを大事にしたいです。

ーー周囲からの目、という話がでましたが、少年院出院後の自立のプロセスでの周囲の支えについては、どのように感じていましたか?
新井:少年院は、どうしても矯正教育のために社会と隔離して関わりを絶たざるを得ないので、出院後の社会復帰はすごく難しかったですね。僕は1年経って出院しても、更生するための社会とのはしごがないように感じたし、更生を支えてくれるコミュニティがないのはつらかったです。
だから、更生自立に関しては、一人の少年に対して関わる人数が増えるといいんじゃないかと感じています。
太い幹を一本つくってあげるよりも、いろんな細い糸を垂らしてあげるほうが大事なように思うんです。太い幹というのは、たとえば仕事のような大きな軸のことですが、うまくいかないこともありますよね。その幹だけに頼ってしまうと、なくなった瞬間にゼロになってしまう。それが一番苦しいんだと思うんです。
あまり大きな幹に頼りすぎずに、細い糸がたくさんあるように関係人口を増やしてあげるといいんじゃないでしょうか。その関係人口がいざというときに相談する先になるし、その出会いが「こういう生き方をしてみたい」っていうモデルケースになると思うんです。
ーー出院してからその関係人口を増やしてあげることは大切ですし、それをやろうとしている支援団体も多いですよね。
新井:そうですね。でも、当時の自分は「大人に支援されたくない」って思っていたんです。それは、大人は社会的枠組みで僕を判断してくるのではないか、というバイアスを持っていたから。「暴走族に入って、少年院に入った僕」という肩書きではなく、「新井博文」として生きたい、という気持ちが強かったんですね。
今となってはもちろん、セーフティーネットがあることは本当に素晴らしいことだと思っています。だからこそ、今の少年たちが更生や自立のために支援を利用できて、そのなかで関係人口も増えていったらいいな、と願っています。
笑いがある“面白い人生”を過ごしたい
ーー少年院に入っていた過去を、今新井さんはどのように捉えているんでしょうか。
新井:僕は傷つけた人がたくさんいるので、その方々の「傷つかなかった人生」っていうのをなくしてしまった。妹が面会に来てくれて泣きじゃくってたときも、心の傷を負わせてしまった。自分が失ったというより、失わせてしまった。それは一生十字架として背負っていきたいなと思っています。
でも、柔らかな土台、自分のスタート地点が、あのときできたんじゃないかなと思います。親とゆっくりしゃべれたし、仕事に対する姿勢や本を読む習慣とか。立ち戻れる人生の基礎ができたことは大きかったんじゃないかなとは思います。
ーー新井さんは、トークイベントなどでご自身の経験を多くの人の前で語られていますよね。なかなか過去の経験を人前で話す方が少ない中で、なぜ新井さんはあえて発信していこうと思ったのでしょうか。
新井:これは明確に思いがあって、少年院を出た人たちの一つのモデルになりたいんですよね。出院して自分らしく生きたいと思ったときに、しんどそうに生きている人が多かったので。モデルケースがなかなか発見できなくて苦しかった。
でも周りの方の力もあって、そんなことないんじゃないかっていうのは、自分の生き方でいろいろ実証させてもらった感じがあります。
もし自分と同じような経験をしてきた人がいたら、社会の中で根を張って、人間らしく生きているモデルケースになれたら嬉しいなと思って、自分の経験をお話するようにしています。

ーー少年院に入院した経験がある方が、もしこの記事を読んでくださるとしたら、新井さんが何かお伝えしたいことってありますか?
新井:絶対にこの世界中で、あなたのことを受け入れてくれる人はいるってことを伝えたいなと思いますね。だから諦めたらあかんよって。その「諦めたらあかん」には、真っ当に誠実に生きていくことも含まれています。
ーー少年院に入った方のご家族も、とても悩まれるかなと思います。もしご家族に伝えることがあるとしたら?
新井:未来は期待に溢れてるって伝えてあげたい。彼らは、まだまだ先の人生が長くて、誠実に生きてさえすれば、これから豊かな人生が待ってると思う。その視点で、彼らの土台となってしっかり向き合ってあげてほしいなって思いますね。未来は期待に溢れてると思います。
思い出すだけで、あのとき道を踏み外してたかもしれないなって思うシーンがいっぱいあるんですよ。人が立ち直っていくのって、グラデーションというか、綱引きのようなんですよね。一歩歩いてもまた戻って。それぐらい難しいことに、一緒に立ち向かっていってほしいなと思います。
いきなりは誰も成功はしない。例えば仕事がうまくいかなかったりしても、向き合ってあげることが大事なんじゃないかなと思って。「そんなんだからダメなんだ」とか、一個の失敗に対して人格否定のようなことを言うのではなく、長い目で見てあげてほしい。
ーー新井さんも、ここまでの道のりには本当にさまざまなことがあったと思います。
新井:正直に言うと、今のような生き方にたどり着くまではすごく大変でした。こうして人生を振り返って語ると美談のように聞こえることもありますが、決してトントン拍子に進んできたわけではない。3歩進んで5歩下がることもあったし、実際には下がっていないのに、自分で勝手に傾いてしまいそうになる時もあった。
でもそんなとき、「あ、自分にはおとんがいるな、妹がいるな」と思い出すことができて、そういう存在に支えられてきたからこそ、今の自分があります。だからこそ、枝のように支えてあげられる人が身近にいることが大切だと思うんです。やっぱり少年院を出て立ち直るというのは本当に難しい。それを周囲が認識しておくことは、とても大事だと感じています。
ーーさまざまな人の存在が支えてくれたんですね。その時間を経て、新井さんは今後どういうふうに人生を生きていきたいと思っていますか。
新井:変わらずに、おもろい人生を過ごしたい。家族や友人たちと笑い合える日々がつくれてたら、僕は十分満足だなと思って。そのために仕事などさまざまなことを通じて、社会にアクセスできるようにしていきたいです。
根底にあるのは、やっぱり自分も豊かに生きたいし、その豊かさの中には周りの人が笑ってくれていることが前提にあります。笑顔じゃないんですね、笑いなんですよね。あははっていう、ユーモアな笑いがある人生にしたいです。

(撮影/秋吉祐子)
