【写真】並んで座る登壇者のお2人

生き方や価値観の多様化する時代を表すとき、「大きな物語が失われた時代」と形容されることがあります。けれどいったい何がどう“大きい”のかはピンとこない人も多いかもしれません。

フランスの哲学者リオタールは、大きな物語について「すべての人間をその理念の下に組み込もうとする」と述べています。

つまり「技術が発展すれば社会が豊かになる」や「労働者が団結すれば不当な状況から解放される」といった大きな物語同士は、互いに「自分たちが普遍的な物語である」とゆずらない性質をもっています。

“普遍的”であろうとする大きな物語は、社会の複雑さや多様性が明らかになるほど、成立しづらくなっていきます。例えば今の日本において「良い大学に行けば良い会社に入れて幸せになれる」といった大きな物語を信じるのは容易ではないはずです。

社会を編集するための「小さな物語」を考える

「大きな物語」に対する概念として挙げられるのが、多様な人々が語る「小さな物語」です。

リオタールは、普遍性は重視されず、物語が「複数存在している」ことを良しとしました。「大きな物語」から排除されていた人たちも、各々の価値観や視点にもとづいて社会を多様な切り口から物語っていく。その営みは多様な立場から「社会を編集」していると言い換えられるかもしれません。

日頃わたしたちが目にするニュースにも「小さな物語」は溢れています。そこでは、“若者”や“お年寄り”、“マイノリティ”といった多様なカテゴリを背負った人々が登場し、複雑な社会のあり様を理解する手助けをしてくれます。

しかし、実際の社会はきれいにカテゴリ分けされているわけではありません。カテゴリからこぼれ落ちる個人の物語にも、複雑で多様な社会を捉えるヒントが隠れていることもあるはずです。

過度に共感を煽りすぎたり、俯瞰的な視点が抜け落ちないよう注意をしながら、丁寧に個人の語りを拾い上げていく。この積み重ねによって社会の多様性を見つめたい。そうsoarは考えてきました。

「小さな物語」や「社会の編集」についてより深く知るために、soarでは2018年2月6日(火)に読者向けイベント「社会を編集するための“小さな物語”の紡ぎ方」を開催しました。

ゲストスピーカーには「小さな物語」にフォーカスし、社会課題の発信に携わるお三方をお迎えしました。株式会社コモンセンス代表取締役で『ニッポン複雑紀行』編集長である望月優大さん。フォトジャーナリストの安田菜津紀さん、『LITALICO発達ナビ』編集長の鈴木悠平さんの3名です。

【写真】会場全体写真。たくさんの参加者が参加してくださっている

イベントの冒頭ではモデレーターのモリが、本イベントに対する反響の大きさに触れ、参加者と一緒に考えたいテーマについて共有しました。

モリ:“社会を編集する”という捉えどころのないテーマにもかかわらず、イベント告知をしてから15時間ほどでチケットが売り切れました。社会を編集する、小さな物語を紡ぐことに対する関心が予想以上に高いのだと感じます。

もちろん、このテーマは今日だけで答えが出せるとは思っていません。「小さな物語」によって社会課題を認識するとはどういうことか、メディアはそれをどう編集していけるのか。皆さんと一緒に考えていきたいです。

【写真】参加者に向かって話すもり

人生に意味を与える「物語」をどう扱うか

鈴木悠平さんは、編集者やライターとして携わってきたメディアを例に挙げながら、自身の考える「小さな物語」のあり方について語りました。

鈴木さん:物語には人生における出来事を意味づけする役割があると考えています。その「意味づけ」は人生に意味を与えてくれる一方で、時に自分自身を縛ってしまうこともあります。

鈴木さんは物語の危うさに関連して、昨年行われたsoarのカンファレンスでの熊谷晋一郎さんの言葉を紹介しました。

鈴木さん:熊谷さんは「生きている限り『私はこういう人間だ』という小さな物語、つまり人生の意味づけを見直すタイミングが訪れる」とおっしゃっていました。そこで変わりつつある自らの内面に耳を傾けると、きっと新しい自分がみえてくるからです。

【写真】マイクを握り語るすずき

鈴木さんが編集長を務める「LITALICO発達ナビ」では、発達障害の子どもを持つ保護者さんの持つ「小さな物語」が更新される瞬間を伝えようとしてきました。

鈴木さん:人によって症状の異なる“発達障害”を扱う場合「発達障害の子どもに対してはこう接すべき」といった大きな語りには限界があります。発達ナビでは発達障害のお子さんを持つ保護者の方に、日常のなかで起きる意味づけの変化を書いてもらっています。例えば「子どもが不登校になった時はもうおしまいだと思っていた。だけど、娘や主治医と対話をするなかで考えが変わっていった」といった、個々人の変容を丁寧に辿った物語は、近い境遇の親御さんが物語を編み直すきっかけになるかもしれません。

複雑な事象を制約のなかで扱うために

次に登壇されたのはフォトジャーナリストの安田菜津紀さんです。安田さんは東日本大震災後の東北地方や中東の難民キャンプを訪れ、そこで生きる人々の姿を伝え続けています。安田さんが捉えようとしてきたのは戦地に存在している“日常”の姿です。

安田さん:例えば「シリア」という言葉を聞くと、多くの人が内戦を思い浮かべると思います。けれど私が2009年にシリアを訪れた際には、宝石箱をひっくり返したような美しい夜景を目にしました。シリアは決して元から戦地だったわけでもなければ、そこに生まれつき難民だった人は一人もいません。私がシリアを取材し続けるのは、かつてそこにあった日常を伝えていきたいからです。

【写真】トークセッションの様子

もう一つ安田さんが見せてくださったのは、2011年に東日本大震災で甚大な津波の被害を受けた岩手県陸前高田市の写真でした。

安田さん:震災当時、義理の夫の父母が岩手県の陸前高田市、義理の母が亡くなってしまったんです。それから7年間、ずっと被災地の取材を続けています。

このように自分自身が結んだ人との縁を通して街と出会う、向き合い続けていくことも、私がフォトジャーナリストとして大切にしていることです。

【写真】やわらかな表情で話をするやすださん

「『小さな物語を語る』という壮大なお題をいただいた」と微笑む安田さん、「今日は参加者の皆さんと分かち合う場をつくりたい」と語り、発表を締めくくりました。

どの物語が本当かさえわからない時代にどう向き合うか

次に登壇されたのは株式会社コモンセンス代表取締役の望月優大さんです。望月さんは日本の移民文化や移民の状況を伝える『ニッポン複雑紀行』編集長を務められています。

望月さん:「編集」という行為は、複雑な現実を消化しやすく、一つの側面から切り取る行為だと定義しています。そしてこの編集を通じてのみ、私たちは社会を理解することができる。仮に編集を一切介さず現実をぶつけたとしても、きっと人はその複雑な現実を頭で処理しきれないからです。

多面的な社会を語るために、ひとつの側面を切り取らなければいけないという「限界」にどう向き合うのか。望月さんが自身の取り組みの一例として、『ニッポン複雑紀行』を挙げます。

【写真】ニッポン複雑紀行のトップページ

望月さん:僕は複雑紀行での発信を「編集する行為に対するアンチテーゼ」として位置づけています。

例えば、一人のネパール人を取り上げたとしても、その方がネパール人全体を代表しているわけではないと作り手も読み手も理解できる。ひとつの切り口を選ばざるを得ない「編集」という行為を用いて、その対象の背後にある複雑さを浮かび上がらせていく。「編集」の限界に挑む発信の仕方を実践していきたい。

【写真】真剣な表情で語るもちづきさん

望月さんはメディア以外のプロジェクトにおいても、「社会を編集している」という意識を持ち続けてきました。金銭的な理由で塾に通えない中学生や高校生を支援する『スタディクーポンイニシアチブ』もその一つです。

望月さん:「教育問題」と聞くと幼児教育の無償化や大学無償化といった大きな問題が思い浮かぶと思います。けれど、それ以外にも「お金がないからクラスメイトと同じ塾に行けない」といった苦しみは確かに存在している。スタディクーポンは、「周りができていることができない」という痛みを切り口に社会を編集し、目を向けてほしい問題を提示する方法の提案でもありました。

複雑な事象を制約のなかで扱うために

小さな物語の役割を実例とともに語ってくれた鈴木さん、非日常における“日常”の美しさを写真とともに共有した安田さん、「社会を編集する」ことに対する向き合い方について見解を述べた望月さん。

「社会を編集するための小さな物語の紡ぎ方」というお題に対する3人の関心が浮かびがったところで、ここからモデレーターのモリを加えて議論を交わしていきます。

【写真】トークセッションのスライド写真。「社会の編集」を考えるキーワードが並んでいる

まず初めにモデレーターのモリが社会を編集する際の制約について、3人に問いを投げかけます。

モリ:メディアで発信を行う上では時間や文字数などが限られているケースがほとんどです。そのなかでも複雑な事象を可能な限りそのまま伝えていくために、どのようなことを意識して発信をされていますか?

鈴木さん:「単純に見えて、実は複雑なんですよ」とそのギャップをいかに伝えられるかが重要だと思います。そのためには扱う対象が世の中でどれだけ単純化されているかを把握する必要はあるでしょう。その“単純化”のラインのようなものを知ったうえで、少し違う角度から水を差すような情報を届けるようにしています。

もう一つは固有名詞に頼りすぎないこと。soarやLITALICO発達ナビで「自閉症」や「ADHD」といった診断名を扱うときも、カテゴリを使わずによりその人らしい形容詞で表現できないかを考えるようにしています。

【写真】真剣な表情を見せながら話すすずき

大きな固有名詞を使わないよう心がけるという鈴木さんの意見について、安田さんも「主語が大きいものは思考停止につながる恐れがある」と語ります。

安田さん:私も大きな主語で物事を普遍化してしまわないよう気をつけています。例えば戦争を語る際に「あのテロリスト集団は悪で、退治すべきである」というと、一見起きている事象がわかりやすく理解できたように思える。けれど、その主語に含まれる人々は一体なぜそうなってしまったのか、また戦争で人々が傷ついている原因はそれだけなのか。大きな主語の奥にある複雑さを議論する機会は失われてしまいます。

受け手がその複雑さに触れるためには、大きな主語ではなく小さな主語を用いて、個々の物語に耳を傾ける必要があります。安田さんはその一つの例としてsoarの発信する物語を挙げてくださいました。

安田さん:soarの記事を見ると「私はこういう人に会ってこう考えました、皆さんはどうですか?」と小さい主語で発信を行なっていると感じます。だから問いかける余白が残っているんです。

安田さんの指摘する通り、私たちは複雑さや曖昧さを、理解しやすい単語や文章に押し込めてしまうこともあります。その一つ一つを紐解いていく作業が、物語の背後にある社会の複雑さを受け手に示すために不可欠なのかもしれません。

物語の力を悪用せずに使うためにできること

とはいえ小さな主語を用いた物語は共感を集めやすいがゆえに悪用されてしまう危うさもはらんでいます。物語を適切に扱っていくために大切な視点について、望月さんは「想像力の運動が必要だ」と自身の見解を述べます。

望月さん:一人の可哀想な事例をもとに背後にいる50万人を語り社会運動を展開するような事例は少なくありません。例えば日々の食事もままならない1人の子どもを取り上げて、「世の中にはこんなに可哀想な子どもたちが沢山いる」とセンセーショナルな物語が掲げられることもあります。小さな物語が、すぐ隣にある大きな物語に呑み込まれていないか、私たちは常に気をつけなければいけない。

複雑紀行ではインタビュー記事の末尾にコラムを挿入しているのですが、この記事で扱ったAさんのような人は何百万人いますというデータや背景を示しつつ、もう一度Aさんの事例を見つめ直す。「一と多」を行き来する運動が起きるよう表現の仕方を模索しています。

【写真】登壇者らに視線を向けながら語るやすださん

安田さんも過度な普遍化が行われないよう、主体を明確にした上で「受け手に自ら問いを投げかける」ような発信を続けてきました。

安田さん:「戦地の子供たち」と括るのではなく「〇〇に住む〇〇くん、彼は〇〇という問題を抱えていると、写真に映る対象を一人の個人として明確に示すようにしています。

そのうえで、発信する主体である私と受け手が出会い、問いかけるような状態に近づけたい。「私は彼から社会課題のこの部分がみえると思う。さて皆さんはどうしますか?」と問いかけたいんです。そこからより大きな課題や散りばめられた社会の複雑さを知ってほしい。

受け手との向き合い方について述べた望月さんと安田さんの意見に加えて、鈴木さんは取材対象との関わりについて語ります。

鈴木さん:本人が強く望まない限り、取材対象者に“課題を代表させない”ように気をつけています。例えば、以前ALS患者の武藤将胤さんを取材した際には、「ALS患者」以外にも「30代の働き盛り」や「コミュニケーション分野の仕事している」など複数の点から、武藤さんと僕、そして読者が共鳴できる場所を探っていきました。その共感のための余白を常に残して発信していきたいです。

嘘の溢れる社会で物語をどう語るのか

【写真】にこやかな表情で語るもちづきさん

マクロとミクロを行き来できるような発信に取り組む望月さん、受け手に問いかけるような表現を行う安田さん、取材対象者と読者との間に共感の余白をつくる鈴木さん。「発信する主体」である3人は自身の信念に沿って社会を編集してきました。

個人が自身の価値観や視点にもとづいて社会を編集すると、情報に何かしらの偏りが生じます。その“バイアス”を踏まえて「発信する主体」はどのようなアプローチを取るべきなのか、モリが質問を投げかけます。

モリ:昨今話題になっている「どの情報が本当かわからない」状態にいる受け手に対し、個々の発信者はどのように信頼を獲得していけるのでしょうか。ヒントは「どういう人間が発信しているかを伝える」ことにあると思いますが、みなさんはどうお考えですか?

望月さん:マスメディアの情報に不信感を抱く人が増えている現状は、僕たちのようにニッチなトピックに特化しているメディアにとって、読者から信頼を得るためのチャンスでもあります。

しかし、社会の編集に伴うバイアスを受け入れた上で、立場をはっきりさせることは不可欠でしょう。例えばニッポン複雑紀行は「日本は複雑だ。複雑でいいし複雑な方がもっといい」と、多様性を肯定する価値観を表明しています。

立場を表明するという点について安田さんも大きく頷き、社会に意思を表明する権利について自身の考えを加えます。

安田さん:誰が撮ったのかわからない情報と、名前と人格のみえる人が伝える情報では、受け手の関心の深さに大きな差が生まれます。わたし自身も父が在日韓国人であると表明して活動しています。

どんなバックグラウンドを持つ人であっても、誰もが社会に意思を表示する権利があると知ってほしい。もちろんさらけ出したくない部分も無理に表明する必要はありませんし、どこまで当事者性を出すのかはわたしのなかでも葛藤が続いていくと思います。

「自分」という存在からどの当事者性を切り取り、どの程度背負っていくのかは、あらゆる発信の主体が向き合い続ける問いでしょう。嘘の情報が溢れる時代だからこそ、その問いから逃げずに意思を表明する覚悟が、より一層求められているのかもしれません。

センセーショナルな物語で終わらせないために

立場をはっきり表明する必要があるという二人の話を受け、モリは社会課題を取り上げるメディアやNPOが陥りがちな発信のあり方について指摘します。

モリ:「この課題を知ってもらいたい」と焦るあまり、課題のセンセーショナルさや深刻さを強調しすぎてしまう例も目にします。社会課題の認知を広げたい人や組織はどのような見せ方を選んでいけるのでしょうか。

望月さん:編集された情報をもとに「大体こうだ」とタグをつける理解のあり方は、ウェブ上で毎日のように起きています。例えば子どもの貧困であれば「食べられないくらい貧乏」な子ども以外は、貧困じゃないから救済しなくてよいと解釈されてしまう。

どうすればタグによる分類からはみ出る人を包含したまま社会課題を語っていけるのか。望月さんはその方法の一つとして「今日のテーマであるストーリーが必要になる」と語ります。

望月さん:例えばスタディクーポンが対象とする「塾に通えない子」も、「塾には通っているが英語しか受けられない」とか「有名予備校ではなく近所の安い塾しか行けない」といった話なら、よりリアルな心の揺れとして想像しやすいはずです。社会課題を発信する人には、この微細な領域と向き合う責任があると考えています。

課題として認識されづらい事象も具体的な物語になれば共感を得られる。望月さんの言葉について、鈴木さんは自身のブログ記事に予想外の共感が集まった体験を共有してくれました。

鈴木さん:以前、復興活動をしていた際にどれだけ僕がお金を持っていなかったかをブログに書いたら、自分とは全く異なる人生を生きた人も「わかるわかる」と共感してくれたんですよね。なので「子供の貧困」と大きく語る代わりに、相対的貧困をリアルに伝えられたら、子どもでも親でもない立場の人「俺もそういえば金のない時代があった」と、異なる課題を持つ人の間にゲリラ的な共感を生む可能性があるかもしれない。

【写真】トークセッションの様子。すずきの話を、他の登壇者らが笑いながら聞いている

個々の物語が重なるけれど少し違う領域に共感を生んだという鈴木さんの体験について、安田さんは「当事者自身にも救いになるかもしれない」と自身を振り返ります。

安田さん:私は中学の時に父と兄を亡くしたのですが「悲しい」と言ってはいけないと思い込んでいました。大学生になってから親を亡くした人同士でキャンプをする機会があったんです。そこで気づいたのは同じ「親を亡くした」という立場でもその状況は人によって様々であることです。病気や交通事故、自殺などによって捉え方はまったく異なりました。

けれど同じ体験を分かり合えないことは問題ではありません。それよりも「違うけどあなたのこと知りたい」と相手が努めつづけてくれること、私が発した辛い思いに誰かが響き返してくれることで人は救われると思うんです。

【写真】トークセッションを聞く参加者らの様子。笑みを浮かべたり、熱心にメモをとったりする参加者らが写っている

望月さんの指摘した通り、インターネット上ではセンセーショナルな語りが刹那的な共感を生み、凄まじい速度で拡散されていきます。

安田さんのいう“救い”を生む物語を広めていくためには、きっと個人が抱く小さな心の痛みを捉えること、そしてその責任をメディアや社会活動に取り組む組織が自覚する必要があるのではないでしょうか。

イベントの外にいる人にどのように物語を届けられるか

本イベントにはメディアを通して社会課題について発信している参加者も多くいました。トーク後の質疑応答では、今日のイベントで語られたような「小さな物語に関心を持たない層に対してコンテンツをどう届けていくべきか」といった質問が挙がりました。

望月さん:書き手がデリバリーに対して気を使う必要はあると思います。例えば移民や子どもの貧困に関心がなくても、僕個人に興味のある人に届く状態を作ることはできる。

あとはちょっとわかりづらい情報の方が広く届くかもしれません。以前複雑紀行で大塚にあるモスクの記事が沢山の方に読まれたんです。その記事では登場するイスラム教徒の方が『東北で炊き出しをするのがジハードだ』と言う。日頃ニュースが切り取る「ジハード」のイメージとは真逆ですよね。こうした違和感をぶつけた方が伸びるのではという仮説は今後も追求していきたい。

鈴木さん:社会課題について扱うとしても、伝え方の工夫は無数にあるわけで、「エンタメから逃げない」という姿勢も大事だなと思っています。やはり多くの人がみるものに細部の複雑さを込められるかに挑戦していきたい。構成作家の人と組んでsoarやLITALICO発達ナビのなかで作品をつくっていくような取り組みもチャレンジしてみたいですね。

エンタメから逃げないという鈴木さんの意見を受け、安田さんは実際にASIAN KUNG-FU GENERATIONのボーカルの後藤正文さんとコラボレーションを行った際の経験を共有してくださいました。

安田さん:渋谷のタワーレコードの8階でギャラリートークを開催したんです。すると私の個展に訪れるであろう客層とまったく違う人が集まっていました。

でも「ゴッチの曲が好きだから」と実際に足を運んでくれる人は、被災地について「何かしたい」と思うと、すぐに行動に移してくれました。「知る」の向こうにもアクションが繋がっていく。これからも写真の世界に写真を閉じ込めず、積極的に他分野とクロスオーバーしていきたいですね。

【写真】会場全体写真

望月さんは編集という営みを「複雑で多様な現実を消化しやすく、一つの側面から切り取ること」と定義していました。これを広い意味で捉えるなら、発信の有無に関わらず、誰もが頭のなかで日々社会を編集しているといえるでしょう。だからこそ私たちは社会に潜む複雑さと対峙すると不安を感じ、手頃でわかりやすい物語に縋って安心したくなってしまいます。

しかし3人が挙げたような小さな物語に耳を傾ければ、複雑な社会の内側にある心の揺らぎや痛みを知覚し、より確かな手触りを持って社会を捉えられるはずです。

そんな小さな物語を紡ぐ営みにどれだけ明確な意思を持って、そして謙虚に向き合い続けられるのか。これから「社会を編集」するすべてのメディアに、その覚悟が問われていくのではないでしょうか。

関連情報

ニッポン複雑紀行 ホームページ
安田菜津紀さん ホームページ
LITALICO発達ナビ ホームページ