【写真】多くの葉が茂る前に男性の横顔の一部がうつっている。

こんにちは、裕斗といいます。僕は都内の会社に勤める会社員です。毎日電車で会社に行き、フルタイムで仕事をして、夜はジムに行ったりお酒を飲んだりして過ごす、その辺にいるサラリーマンです。

僕は、恋愛の対象が男性である、いわゆるゲイです。この「ゲイだ」ということを理由にして、僕は自分のことをずっと「マイノリティ」なんだと思っていました。でも、ある病気を持ったことがきっかけで、考え方がずいぶん変わったように思います。

僕の病気は、HIV感染症といいます。「ヒト免疫不全ウイルス(HIV)」によって起こる感染症です。HIVの感染力は非常に弱いのですが、感染すると数年から十数年という長い経過で免疫機能が低下し、さまざまな病気を発症します。こうした状態は「AIDS(後天性免疫不全症候群)」と呼ばれます。

自分がHIV陽性だと知って、僕は「普通の人生は送れない、すぐに死んでしまう」と思いました。ところが、あれから数年経ったいまも僕の身体に現れている症状は何もありません。HIVは血液から検出されなくなり、免疫も回復しました。仕事も遊びも、いままでどおりです。

僕の生活は、朝の一粒の薬と数ヶ月ごとの通院以外は、何も変わらなかったのです。

今回はみなさんに、そんな僕の歩いて来た道とHIVのこと、いま感じている思いをお話したいと思います。

「僕は友達と何かが違う」ゲイである自分に気づくまで

中学生にあがるころから、僕は自分が周りと違うことを感じはじめました。

友達が楽しそうに話す女性アイドルの話や雑誌のグラビアの話にまったく興味を持てなかったのです。適当に話を合わせながら、僕は心の中でいつも取り残された気分でした。

男が好きなのかもしれない。

薄々そう気づいていましたが、気づかぬふりをしました。自分を見つめることが怖くて、目を背けつづけました。

【写真】布をかぶった男性がうつっている

自分のセクシュアリティを認めはじめたのは、大学生になり、ゲイの友人に出会うようになってからでした。自分以外にもこんなにたくさんいるんだ。立場を共有できる人たちの存在は、大きな驚きでもあり、救いでもありました。

ただ、自分が何者なのかがはっきりしてくるにつれて、結婚の不安、バレることへの恐怖、心を開けない寂しさもまた生々しく感じはじめ、その重苦しい感情をどう扱えばよいか分からず苦しみました。

苦心の末に編み出したのが、ゲイである自分を「自覚している自分」と「忘れている自分」の使い分け。

当時は実家に住んでいたのですが、ゲイの友達に会った後は、かならず家の近くの公園などで一休みして「ゲイではない自分」になってから帰っていました。いま思えば何ともくだらない儀式をしていたものですが、それほどまでに当時の僕は、「僕にとっての僕」をどう形作ればいいのかわからず苦しんでいたのです。

それからしばらくして、僕には好きな人ができました。遅咲きの大恋愛でした。

本当に好きだと思える人ができたおかげで、僕はゲイである自分を「僕にとっての僕」として素直に受け入れられるようになったように思います。ゲイであることを友人に伝えはじめたのも、この恋愛があってからのことでした。

HIV擬陽性。その一言で世界は変わってしまった

僕がHIVを持っていることを知ったのは、数年前の夏のこと。本当に偶然でした。

ある日鏡を見たら、左胸にぽつりと発疹ができていました。病院へ行くと、それは数年前にいちど経験したことがある帯状疱疹でした。よかった、それなら薬をのむだけだ。ホッとしている僕に先生が言いました。

お若いのにこんなにすぐに二回目の帯状疱疹が出ていますので、念のためHIVと梅毒の検査を受けませんか。

そういえば、HIV検査ずっと受けてないな。いい機会だと思い、僕は気軽に検査を承諾しました。

それから一週間後。会社に行く前に、僕は皮膚科に寄りました。簡単な診察が終わり、さあ帰ろうとしたとき、先生が一枚のハガキを取り出して言いました。

裕斗さん、先週の検査の結果ですが、梅毒は陰性で……。HIVが擬陽性と出ています。

はい。……え?

最初は事態をのみこめず、しばらくして全身から血の気がスーッと引きました。頭の中が真っ白で、必死に状況を整理しようとするのですが、何をどう整理すればいいのか見当がつきません。

先生……僕はどうしたらいいんでしょう。

やっと絞り出した一言に、先生は答えました。

大きな病院に紹介状を書きます。そこで確定検査を受けてください。

そういうことではありませんでした。これからどう生きていけばいいのか。そもそも、生きていけるのか。そんな問いへの答えを、僕はきっと求めていました。しかし、答えをくれる人は、そこにはいませんでした。

道で血を吐いて死んでしまうんじゃないか、石を投げつけられて普通の生活ができないんじゃないか。そんな恐怖ばかりが次々と頭をよぎります。そして両親の顔。せっかく健康に生んでくれたのに、もう会わせる顔がない。

外に出ると、いつもと変わらない街並みがそこにありました。さっきまで自分が属していると思っていたその社会は、いまや薄く透明な膜でさえぎられた別の世界のようでした。

僕は、社会からはじきとばされたんだ。

こんなに人があふれた東京のど真ん中で、僕はひとりぼっちの世界に閉じ込められた気分でした。

病院の先生との、人生で一番悲しくて嬉しい握手

数日後、絶望を一人で抱えきれなくなった僕は、「ぷれいす東京」という陽性者支援団体を訪れました。深くうなだれる僕の横で、入会手続を手伝ってくれたスタッフさんが、書類を記入する手を止めて笑顔で言ってくれたひとことは忘れられません。

僕も陽性者なんです。

雷に打たれたような衝撃でした。彼の姿は、あまりにも普通だったのです。僕の中にあったHIV陽性者のおどろおどろしいイメージが音を立てて崩れていきました。

僕も普通に生きていけるのかもしれない。

そんな望みが僕の心に芽を出した瞬間でした。

その後、大病院に紹介される手続きの遅さに焦りを感じた僕は、ぷれいす東京に紹介された小さなクリニックを訪問しました。僕のHIVステータスは、まだ確定前の「擬陽性」。「何かの間違いであってほしい」心の中の一縷の望みが僕を余計に混乱させ、疲弊させていました。

こぢんまりとした診察室で僕を待っていた先生は、HIVの専門医でした。いま僕がどんな状況で、今後何を検査して何がわかるのか、いま何をするべきで何を心配しなくてもいいのか、一つひとつ丁寧に教えてくれました。信頼できる医療にしっかりとつながったことで、僕はこのときしずかに、覚悟を決めたように思います。

【写真】光が差し込む床には、水の入ったコップが一つが置かれている。その隣では、誰かが手をつないでいる。

診察を終えて席を立とうとした僕に、先生は手を差し出しました。そして、僕を正面から見つめて言いました。

これから、よろしくお願いします。

僕は先生の手を握り返しました。

けっして治ることのない、でもまだ決まったわけではない病気。先生の手の温かさと力強さは、どちらを向いたらいいのか分からず震えていた僕に「こっちに来い。ずっと一緒だから」と言ってくれているように感じられました。それは僕の人生でいちばんつらくて嬉しい、いちばん絶望的であたたかい握手でした。

絶対に泣くもんかと思えば思うほど、目頭が熱くなりました。その後も大病院に移るまでずっとお世話になりましたが、親身になって奔走してくれた先生には、本当に支えられました。

「僕は“HIVを持っている裕斗”のままここにいていいんだ」

確定検査の結果は、陽性でした。

HIVステータスが陽性だと確定すると、治療方針を決めるために総合的な検査を受けることになります。僕は免疫の値が思いのほか低かったため、入院して検査を受けることになりました。

誰にも伝えない入院。日常生活から断絶される三週間は、暗鬱な日々になると思っていました。

ところが、入院して僕が真っ先に感じたのは、深い安心感でした。会社で倒れたらどうしよう。街で具合が悪くなったらどうしよう。無意識のうちに僕は体調の急変に怯え、それと同じくらい、あるいはそれ以上の苦しさで社会に怯え、いつの間にか疲れ果てていたのです。社会から断絶された入院は、そんな僕を守るシェルターの役割を果たしてくれていました。

告知後すぐに大きなストレスから切り離され、病気のことや将来のことを安心して考える時間を持てたことは、その後の僕の回復の大切な足場になってくれたように思います。

入院病棟では、当然ながらすべてのスタッフさんが僕がHIV陽性であることを「すでに知った状態」で目の前に現れ、それを前提に話をはじめました。病気を隠したくても、目を背けたくても、僕に自由はありません。

しかし、苦痛ではありませんでした。

どのスタッフさんも、HIVを特別なものとして見ていなかったのです。入院患者さんはそれぞれが疾患や疾病を持っていて、裕斗さんの場合はHIVを持っている。ただそれだけの話として見ているようでした。

僕に話しかけ、僕に触れ、僕に笑いかけてくれるスタッフさんたちの姿は、他の患者さんに接するときとまったく同じ。もっと言えば、それは患者と医療者という関係を離れ、人が人に接するときの当たり前の距離感でした。

僕は“HIVを持っている裕斗”のままここにいていいんだ。

そう思えたとき、僕は自由がないと思っていたこの小さな社会にこそ存在する自由を知りました。人と違うまま、普通に過ごした三週間は、後で「シェルターの外」を意識しはじめたときの僕の思考に大きな影響を与えたように思います。

自分を否定していたのは、他でもない自分自身だった

【写真】布で顔を隠している男性がうつっている

僕が入院したのは、比較的大きな病院でした。老若男女さまざまな状態の患者さんたちを見ているうち、僕は病気が分かって以来すっかり自分のことしか考えなくなっていたことに気付きました。そして、ふと素朴な疑問がわきました。

いったい僕は何がつらいんだろう。

考えてみると、僕は周りの他の病気の患者さんが抱えていそうなつらさを、ほとんど抱えていませんでした。HIV感染症は、発見が早ければ何も症状がなく、痛みも不便も見た目の変化もありません。薬もサプリメント感覚の飲みやすさで、服薬治療が成功すればウイルス量を検出限界以下まで抑え込むことができます。僕自身、今までできていたことは、食事・仕事・運動なんでも変わらずできています。

それなのに、ひたすら苦しみつづける僕。猛烈に悩むのが当たり前だと思っていましたが、あらためて考えると、その猛烈さに相応しいだけの理由が見あたりません。

僕は、病院に来てホッとしたことを思い出しました。そう、社会が怖いんだ。でも、僕はHIVを理由に誰かから否定された経験は何もありません。あるのは、しばしば目にしてきた、HIV陽性者を罵る人たちの姿だけ……。

ハッとしました。

心の奥で、僕はHIV陽性者がつらい思いをするのを「仕方のないこと」だと思っていたのです。だからこそ、自分が当事者になったとき、社会からの攻撃をそのまま受け入れることしかイメージできなかった。僕は、HIVを持つ自分のことを自分で嫌い、自分に罵声を浴びせつづけていたのです。

どうして仕方ないと思ったのか。それは「みんながそうしているから」でした。

愕然としました。いま僕を苦しめ、否定しているのは、社会ではなく、すべて僕自身でした。そして、自分の病気がわかるずっと前から、僕は同じことをHIV陽性者の人たちにしつづけていたのです。

僕は、自分のことを差別意識がない人間だとずっと信じて生きてきました。僕はゲイというマイノリティ。だから、他のマイノリティの気持ちに寄り添っている。本気でそう信じていました。僕は、自分自身にマイノリティという「色付きのラベル」を貼り、それが僕の色だと思っていたのです。でも実際の僕は、HIVに強い偏見を持っていました。その偏見に自分自身が晒され、ボロボロになって初めてそれに気づいたのです。

何かが粉々に崩れ去りました。僕は偏見だらけ。何も見えていない。そう知ったうえで見渡す景色は、新しく感じられました。僕が向き合うべきなのは、僕を否定する社会ではなくて、僕を否定する僕自身と、いままで見えずにきた人たちの思い。この場所から、もっといろんなものごとを見て、自分が何を感じるのか知りたいと思いました。

スタッフさんや他の患者さんからたくさんの気づきをもらった三週間。振り返ると、この入院は僕の大きな転換点になったように思います。

HIVを持つ自分の平凡な幸せを伝えたい

【写真】布を掴む男性の腕がうつっている

退院後しばらくして、僕は「HIROTOPHY」という自分のブログを書きはじめました。きっかけになったのは、僕のふたつの思いでした。

ひとつは、自分への励ましです。

病気を知ってしばらくのあいだ、僕は安全なシェルターに身を潜めて過ごしました。そのおかげでショックからの回復に専念できたわけですが、心に余裕が出てくると「次の一歩」を意識するようになりました。少なくとも、このシェルターが僕の最終目的地ではなく、今後「隠すこと」を頑張りたいわけでもないと感じていました。

僕がめざしたい自分。胸に手をあてて考えてみると、それは「HIVを持っていること隠さず、平凡で幸せな暮らしを送る自分」でした。

しかし、その道のりは果てしなく遠いものに感じられました。勇気は、到底出せそうもありません。そういう生き方をしている当事者も僕の周りにはほとんどおらず、当事者の仲間に話してみても変わり者扱いされるばかりでした。

だからこそ、僕はブログを書きはじめました。進む方向を見失いたくない、なりたい自分に向かって孤独な道を進む自分をどうにか励ましてやりたい。ブログを書くことは、僕の決意表明のようなものでした。感じたことや考えたことよりも「したこと」をベースに書くスタイルを採ったのも、そんな思いがあったからです。

ブログを始めたもう一つのきっかけは、もどかしさでした。

HIVに対する世の中のゆがんだイメージを変えたい。

僕にはそんな思いがありました。それは、僕自身の生きづらさを解消するためでもあるのですが、それと同時に、なかなか収束しない日本のHIVの流行に対するやりきれなさでもありました。

HIVを持つことのリスクのひとつは、それに気づくのが遅れることだと思います。発見が早ければ、薬で治療して元気な毎日が過ごせますが、発見が遅れると発症して身体を傷めてしまいます。実際に僕は、HIVを早期に発見できなかった友人を一人なくしています。

発見が遅れるのは、検査を受けないから。検査を受けづらくしているのは、HIVの「人生終わり」というネガティブなイメージ。このイメージに振り回されて、多くの人が「発見と治療の遅れ」というリスクを自ら抱え込んでしまっているように思ったのです。

自分の生きづらさをなくすためにも、自分や友人のような人がこれ以上出てこないようにするためにも、世の中のHIVの印象を変えたい。そのために、僕はブログを通じて平凡な個人としての陽性者の姿を見てもらいたいと思いました。

それは、ゲイ向けのHIV啓発予防のメッセージが雨あられと降りそそぐ中、何ひとつ自分事としてキャッチできなかったかつての自分への反省でもありました。どうしたら数年前の自分が腑に落ちる形でメッセージが届くだろう。そう考えたとき、当時の僕に明らかに欠けていたパーツが、ひとりの人としての陽性者の姿だったのです。

孤独を覚悟して歩きはじめた道は、けっして孤独じゃなかった

【写真】外を歩く男性の後ろ姿がうつっている

僕は、自分がHIVを持つことになったことを身近な人にゆっくりと伝えはじめました。

友人、歯医者さん、昔のパートナー、飲み屋のマスター…。

一歩ずつ外に出ていく僕を、みんなは思った以上に自然に受け止めてくれました。そして、そんなエピソードを一つずつブログに綴っていくと、連動させているツイッターのアカウントに反応がつくようになりました。

それは、思っていた以上に大きな支えでした。

僕が病気を伝えた相手と、横で見守ってくれた人たち。その両方から、「お前が幸せになることに何の問題もない。お前の生き方は間違っていない」と背中を押されている気がしました。

反応は徐々に大きくなり、ときにはたくさんの「いいね」をもらって、いわゆる「バズる」経験もしました。ブログを通じて知り合った人とオフラインで会って食事をしたりお酒を飲んだりするようになり、本名の書かれた名刺を交換したりするようにさえなりました。

夢見ていた「HIVを持つことを隠さずに過ごす、平凡で幸せな時間」は、いつの間にか現実になっていました。孤独を覚悟して歩きはじめた道は、もはや孤独ではありませんでした。

あこがれへの道のりを記そうと始めたブログは、いつの間にかあこがれの自分を実現する場になっていました。

ブログを読んでくれた方の声が気づかせてくれたことは、いろいろあります。

中でも忘れられないのは、ぷれいす東京の主宰するイベントで、ある陽性者の方が僕に「ブログの裕斗さんですか?」と尋ねてきたときのことです。そうですよと答えると、その方は涙目になりながら「ありがとうございます。自分はあのブログに本当に救われました」と言ってくれたのです。横にいた陰性のパートナーさんは、その方の背中に手をやりながら「こいつ毎晩ずっと見てましたよ、裕斗さんのブログ」と言って笑顔を見せてくれました。

僕は、二つのことに気づきました。

一つは、発信というのは発信者の意図したとおりに人の心に届くとは限らないということです。僕はブログを「自分のため」と「無関心な人のため」に書いていて、同じ病気を持つ人たちのためという意図はありませんでした。それにもかかわらず、僕の置いた言葉は僕の意図とは違う形で、人の心に何かを届けたようなのです。

誰かの何かを変えようという思いで発信するのは、思い上がりなのかもしれない。発信は、選択肢を提示するだけなんだ。このとき以来、僕は「どう変えたいのか」ではなく「何を知ってほしいのか」を考えて発信をするようになりました。

もう一つは、僕の発信を受け止めてくれた人の思いは、反応として現れないところにも無数に存在するということです。僕のブログに救いを感じてくれたこの方の思いは、ウェブ上に姿を現すことはありませんでした。それでも、思いはこんなにしっかりと存在しているのです。目に見える反応だけが、発信に対する反応ではない。そんな当たり前のことを、僕はこのとき実感として知りました。

ゲイであることを隠す人生は十分やってきた。次は隠さない人生を楽しもう

HIVの告知を受けてから2年ほどたった頃、僕は自分がゲイであることをカミングアウトしました。ここでいうカミングアウトは、「誰かに伝える」ことではなく、「誰に聞かれても隠すことがない」という意味での社会に向けたカミングアウトです。

きっかけは、ゴールデンウィークにおこなわれるレインボープライドのパレードでした。初参加だった僕は当日が近づくとワクワクしてきて、会社のメンバー100人以上とつながっているFacebookに思わず投稿したくなってきました。

いやいや、載せられないでしょ。

ひとり苦笑いしたそのとき、気づきました。フルオープンなんて「今さら必要ない」と思っていましたが、単に僕は「怖くて言えずにいる」だけなんだと。

イベントが楽しみ。ただそれだけのことを言葉にできずにいる自分が、もどかしく感じられました。カミングアウト。僕にもできるんだろうか。「隠して過ごす人生」を捨てて二度と取り戻せなくなっても、後悔しないだろうか。あらためて考えてみると、僕の答えはもう出ていました。

隠す人生はもう十分すぎるほどやってきたから、思い残すことは無い。むしろ隠さない人生を知らないほうが、僕は後悔するんじゃないか?

【写真】外を歩いている男性の姿がうっている

軽く深呼吸をして、僕は投稿ボタンを押しました。

明日パレード歩きます。僕はゲイです。

連休明け、会社の人たちの反応は「見たよ。よかったね!」「パレードどうだった?」という拍子抜けするほど「普通の」反応ばかりでした。

大きな段差だと思っていたところは、進んでみたらただの平らな床だったのです。

むしろ変わったのは、今さら変わらないと思っていた僕のほう。隠すことに慣れ切っていると思っていたけれど、いざその必要がなくなった毎日は驚くほど気楽で、そして自由でした。

みんなそれぞれ何かを持っている。母の言葉

そして先日、僕はHIVのことを母に伝えました。

伝えたかったことは、ただひとつ。僕の持つ病気が「とんでもない病気」ではないから安心してほしいという、その一点でした。泣かれても、パニックになっても、とにかく安心してくれるまでそばにいようと決めていました。

少し緊張しながら病気のことを話しはじめましたが、意外なことに母はいくら説明を聞いても驚く様子を見せません。一通り話を聞いた母は、僕をまっすぐ見つめながら言いました。

みんなそれぞれ何かを持ってるのよ。みんな同じ。

にっこりと笑って、もう次の話を始めている母を見ながら、僕は一人の女性としての母の人生を思いました。この人には、どんな出会いや経験があったのだろう、どんな思いを重ねてここまで歩いてきたのだろうかと。そして気づいたのです。母が僕を信じてくれているんだということに。

病気を母に伝えることは、告知の瞬間からずっと頭の片隅にありました。やっと母に伝え、伝えきったと思えたことで、僕はこれまで起きたすべてのことが「これでよかったんだ」と思える気がしました。

恋愛の一歩を踏み出せない。僕が感じる生きづらさ

健康に暮らし、周囲の人にもカミングアウトをしている僕ですが、生きづらいと感じることもあります。

僕には、いまパートナーがいません。「恋人つくらない主義」というわけではなく、いいなと思う人との出会いはありますし、お互いが好感を持てばデートだってします。以前の僕はそんなとき、できるだけ率直に自分を見せて、また相手を知ろうとして、関係性をさらに前に進めようとしていました。ところが、HIVがわかって以来、僕はそんなふうに恋愛への一歩を踏み出すことができなくなっています。

病気のカミングアウトが怖いことも大きいのですが、いざパートナーができたとき、どうやってその人を守ればいいのか答えを出せずにいることも理由の一つです。

僕ひとりの話であれば進む道はもう決まっていて、少しずつでもHIVのことをオープンにしながら、周りの人たちや社会との関係性をアップデートしていきたいと考えています。ところが、パートナーができると、これは僕だけの話ではなくなります。僕が自分をオープンにすることで、僕のパートナーは経験する必要のなかった差別や偏見にさらされることになるかもしれません。

【写真】布で顔を隠した男性がうつっている

いまの僕は、「誰かを好きになりかけたら必死で思いを揉み消す」という方法でしか、未来のパートナーの安全を守ることができずにいます。

僕が向き合うべきなのは社会じゃなくて自分。そんな思いで歩きはじめ、いろいろな自分事を整理してきた僕は、いまあらためて社会と向き合う場所に戻って来ているのかもしれません。



HIVを持っている自分の“そこにいる姿”を見てほしい

僕はこれから、一人のHIVを持つ個人として、少しずつ世の中に出ていきたいと考えています。隣人に伝えることはもちろん、イベントや学会のような公式な場なども機会があれば一つずつ出ていきたいです。

「会いに行けるHIV陽性おじさん」になれたらいいなと思います。HIVに対する世の中の印象と、実際にそれを持つ人の「何でもなさ」のギャップは大きく、それに気づいたときの衝撃の強さは他でもない僕自身が経験を通じて痛感しています。だからこそ、“そこにいる人”としての姿を見てもらえば、HIVへの印象を変えていくことはできると信じています。

ただ、個人の話とは違って、社会の印象は瞬時にガラリと変わるものではないと思います。何かが一気に変わったとしても、それは表面の土が濡れただけで、少し日が照ったらすぐにまた乾いてしまうような変化かもしれません。土壌の深くまで水が行きわたるには、やはり相応の時間や分量が必要なんだと思います。

【写真】光が差した床には、葉がいけてある花瓶と、水の入ったコップがおかれている

むなしく思える時間があったとしても、決して無駄ではない。あきらめずに粘り強くメッセージを発信していきたいと思います。

そもそも、僕が今回こうしてコラムを書かせていただけるのも、周りの人たちに自然な形で受け入れてもらえるのも、これまで乾燥した大地に水を与えつづけてきた人たちが様々な分野にいたからにほかならず、僕はそこに落ちた一粒の種のようなものだと思います。だからこそ、僕もまた僕のためだけではなく、次に落ちる種のために水をやりつづけたい。それが、小さな花を咲かせてもらった僕にできる恩返しだと思っています。

誰もがみんな違って、違うままみんな“普通”

よく「“普通”なんてものはない」ということを言いますが、僕は普通がないというより「誰もがみんなが“普通”」なんだと思います。誰もがどこか人と違う。違うまま、普通なんだと思います。

もしあなたが人との違いで自分を嫌い、傷ついているなら、まず何よりも心や体に苦痛を与えるものから遮られた安全な居場所を見つけてほしいと思います。安心できるところにいないと、あなたができるいちばんいい判断が、いつまで経ってもできないかもしれません。

あとは、あなたのペースでゆっくり考えていけばいい。考えるのを待てない、解決を急ぎたがる人が周りにいても、それはスルーすればいいと思います。一進一退だっていい。後退続きだってかまわない。自分らしい歩き方で、納得がいくまで感じたり考えたりを繰り返せばいいんだと思います。

もしよかったらそのとき、「人との違い」が世の中には無数にあること、あなたをいま苦しめている違いだけが唯一の「人との違い」ではないことを、思い出してもらえたらと思います。

HIVは、僕の人生をいちど壊してくれました。そして、僕の二番目の人生の出発点になりました。マイノリティという目隠しで自分が見えず、周りが見えずにいた人生より、いまの人生の方が僕は僕らしく生きていると感じています。

これからも、自分や他人にラベルを貼ってしまうことに自覚的でありつつ、自分らしさを大切に生きていきたいと思います。そして、自分らしさに向き合う人の話をいろいろ聞きながら、自分の無自覚な目隠しにこれからもひとつずつ気づいていきたい。

【写真】空に向かって伸ばしている誰かの両手がうつっている

これを読んでくれたあなたにも、いつかお会いできたらいいなと思います。いや、ひょっとしたらもうお会いしているのかもしれません。僕はその辺にいるサラリーマンです。あなたが昨日会った人、あなたのいま目の前にいる人、それが僕かもしれないですね。

関連情報

NPO法人ぷれいす東京 ホームページ

Hirotophy ホームページ

裕斗さん Twitter

医療情報参照元

厚生労働行政推進調査事業費補助金(エイズ対策政策研究事業) HIV感染症及びその合併症の課題を克服する研究班 HP

※写真に掲載されている人物は、裕斗さん本人ではありません。

(カメラマン/中里虎鉄)